老人党どっと混む
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【10382】かっくるの千夜30冊スレ・その3 かっくるなかしま 13/10/19(土) 11:11
【10383】第34回・なだ「権威と権力」より「説得の方... かっくるなかしま 13/10/19(土) 12:48
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【10388】第35回・エリックホッファー「大衆運動」 かっくるなかしま 13/10/20(日) 16:14
【10391】第36回・ヒューズ「量子論理」 かっくるなかしま 13/10/21(月) 12:05
【10394】Re:第36回・ヒューズ「量子論理」 かっくるなかしま 13/10/21(月) 19:25
【10449】第37回・山下「思想の中の数学的構造」より... かっくるなかしま 13/11/6(水) 12:28
【10451】第38回・川喜田二郎「発想法」 かっくるなかしま 13/11/6(水) 17:06
【10457】第39回・ランダウ「力学」 かっくるなかしま 13/11/8(金) 15:06
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【12034】Re:番外編・与党想定外の「違憲」@憲法審査... かっくるなかしま 15/6/10(水) 19:10
【12098】第71回・橋爪大三郎「国家緊急権」〜 憲法... かっくるなかしま 15/6/30(火) 11:10

【10382】かっくるの千夜30冊スレ・その3
 かっくるなかしま  - 13/10/19(土) 11:11 -

引用なし
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   前スレはこちら(↓)。
ttp://roujintou.com/c-board33/log/tree-69.htm
(かっくるの千夜10冊スレ・その2)

千夜10冊のペースは守ったものの、そのペースだと50投稿を待たず過去ログに落ちるため、見出しの一部を30冊に改めてみました。しかし、肝心のペースが上がるかどうかは自信なし(笑

まずは、第3回でも取り上げた、なだいなだ著「権威と権力」、その第7章「説得の方法」に絞って再開いたします。

【10383】第34回・なだ「権威と権力」より「説得の...
 かっくるなかしま  - 13/10/19(土) 12:48 -

引用なし
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   まずは、第3回でも取り上げた、なだいなだ著「権威と権力」、その第7章「説得の方法」に絞って再開いたします。
ttp://iwanami.co.jp/cgi-bin/search?isbn=ISBN4-00-412036-5
(なだいなだ、「権威と権力」、1974、岩波書店)

ここでの論点がぼやけるのを避けるべく、コンパクトに参ります。

まず、本書の全体を通じて、興味深い点は、副題「いうことをきかせる原理・きく原理」、さらにその内の「きく原理」という箇所。
ー  (権威と権力に関わる事柄もろもろを)受容する側にも注目しているところです。

その上で、第7章「説得の方法」にフォーカスすると、

なだ氏がどういうことをそこで取り上げているかと言えば、大きく以下の5つです。Q&Aの形で要約してみると、

Q1) 我々にはどのような説得を試みる傾向があるのか?

Q2) 説得の種類にはどういうものがあるのか?
 
Q3) 暗示による説得は、どういう現象をもたらすのだろうか?

Q4) 人はなぜ、どういう場合に、暗示に従うのだろうか?

Q5) 理による説得とはどういうもので、なぜ、それが必要なのだろうか?

以上の設問に対するなだ氏の考え方は、
ー  (注記:筆者=かっくるの読解による)

A1) いろいろな方法があるが、自分の説得され易い方法を選んでいる。逆に言えば、その人の説得の方法を見ると、その人を説得する方法が分かる。

A2) 単純なものから脅迫(物理的な実力行使)、命令(組織の梃子の原理)とあるが、そうした力を用いない説得として、権威的な説得、があり、それは、暗示による説得の一部である。

A3) (暗示の負の側面として)集団が不条理な行動をする。例えば、ナチの時代の群衆の行動。一人が踊り出したらうつって次々に踊り出すという現象。

A4) 暗示による説得(権威による説得を含む)、どういう場合に有効なのかと言えば、受け手の側に、危険と結び付いた不安や未知なるものへの恐怖がある場合である。暗示を受け入れる素地が受け手の側にあるということになるが、大きな問題は、(そうした背景には)無知があること、自我の確立がないことである。
 
A5) 理による説得とは、一人が別の人を支配することではない。説得する人が、説得される人にも自分にも共通するものを見つけることである。その場合、その意見は、相手のものでも自分のものでもなくなる。

以上は、筆者の読解であるから、実際に目を通されることを推奨しておきたい。

その上で、筆者の感想や意見を個々に付け加え示すと、

1) 卓見である。なだ氏の「よい質問は答弁に優る」に通底する。

2) 権威にせよ、それを含む暗示にせよ、広い意味で言い換えるなら「社会的条件付け」である。そして、それは功罪の両面を持ち合わせるとともに、誰しもがそれを免れない。典型的には、言語の使用からしてそうである。そして、当テーマについては、構造主義の観点で様々に論じられていることでもある。

3) これは実例が示現していることでもあり、客観視することをお勧めしたい(笑

4) 不安や恐怖を煽ろうという行為や行動に対し、注意深くあれ、というのが、処方箋/予防策となるであろう。
ー 危険にせよ未知にせよ、よく知ろうとすることを疎かにしてはならないということでもある。マキャベリは、天国に至る道を知ることは、地獄に至る道を知ることである、と語録に残していると記憶する。

5) そもそも、個々人に差異がないなら、説得など要らない。そうでないから、説得が要るのである。暗示や権威に頼る説得は、局面や状況によって有効ではあっても、それに依存することの負の側面の悪影響は甚大である。であるが故に、理による説得を主とすべきなのである。共通点というものは、相違点の補集合であるから、共通点を探すという作業は、相違点を確認するという作業と対(つい)をなす。理による説得というのは、個々人の主観の間に、共通認識の橋を設け、間主観(かんしゅかん)を形成する作業である。
ー 例えば、論理というのは、我々の大脳に共通して備わっている機能の一つに過ぎないが、それは共通言語でもあるのである。科学的事実も同様、数学も同様。

以上。

【10388】第35回・エリックホッファー「大衆運動」
 かっくるなかしま  - 13/10/20(日) 16:14 -

引用なし
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   第35回は、沖仲仕の哲人、エリック=ホッファーによる「大衆運動」である。

URL省略。以下で検索願いたい。
(エリック=ホッファー、「大衆運動」(復刊版)、2003/02、紀伊国屋書店)

10年前に復刊版を手にしたのは、知人のエコノミストによるメールでの推奨がきっかけであった。

市場(マーケット)においては、それに参加し、直面し、観察するならば、否が応でも「群衆心理」と対峙することになる。

もちろん、市場においては、理屈もあれば理論もあるし、通常であればそれらは概ね機能すると言ってよいのだが、往々にしてそれらが十分に機能しなくなる、時としてそれらがまるで機能しなくなるというのは、現象論的な観測事実である。

言い換えるなら、市場参加者、あるいはその観察者は、市場における「非合理性」に直面するわけだ。

突き詰めれば、そこには、売りか買いかの選択肢、決断しかないのであるが、

市場が非合理的な状況に見舞われる場合、

"自分は正しい、理屈の上ではこうだ、それなのに自分が負けるのは、市場が間違っているからだ"、

プロ/専門家ですらそうした言い訳はするし、理路整然と誤る場合には当然のことながらそうした言い訳の誘惑に駆られる。

ただし、言い訳をしても、それだけでは負けを取り戻したり成果を上げたりするうえでの問題解決策にはならない。

であるから、非合理的な市場、非合理的な群衆心理、というものに自ずと向き合うことになるし、それを余儀なくされるわけだ。

半歩、先に進むとして、何を試みるかと言えば、

非合理性を合理的に説明する、ということを試みることになる。
ー 「内なる理」を追究するということである。

エリック=ホッファーのこの著作は、

人間集団の持つ非合理性をより広く深く理解しようという試みなのである。

ホッファーのそこでのテーマは、「いったい何が人々を魅了し、集団行動にのめり込ませてゆくのか?」である。

筆者(=かっくる)が、いかなる観点で取り上げているのか、それを上記に示すことで、感想は概ね出尽くしていると思っている。
ー J.K.ガルブレイスの「バブルの物語」と同様、人間の「愚行史」には大いに学ぶべき点がある。
ー 己れを含め愚行から学ぶべきところは多いのだが、個人(や社会)が愚行をそうそう直接経験し幾度も繰り返すわけにはいかないから、「愚行史」に依拠するのである。

現在進行形の今そこにある現実との関連で付け加えると、

狭い範囲で市場の群衆心理に注目しても、今日の状況(各国中央銀行による実質的な財政政策の肩代わり)において、それ(群衆心理)の制御は極めて重要である。
ー 金融政策の微細な変化→群衆心理の変化→巨大な資金移動、という波及経路を今夏に経験している通り。そして、いずれ米国中央銀行は出口戦略を採る。

最後に、ホッファーの同書におけるキモともいうべき、大衆運動〜熱狂が駆動する集団行動〜に対する洞察と警鐘を紹介しておきたい。それは、中世異端審問、ナチズム、共産主義等を縦断、俯瞰してホッファーの観る「不合理の理」である。

ー あらゆる大衆運動は、その支持者の内部に死の覚悟と統一行動への傾向を生み出す。

ー あらゆる運動は、どのような主義を説こうと、どのような綱領を打ち出そうと、狂信、熱狂、熱烈な希望、憎悪、そして不寛容を育てる。

ー そして運動は全て、盲目的な信仰と一筋の忠誠を要求するのである。

ー あらゆる運動は、異なる主義と熱望とを持っているにも関わらず、その初期の支持者を同じ類型の人間から引き出してくる。

ー 運動は全て同じ類型の心の持ち主の興味を惹くのである。

【10391】第36回・ヒューズ「量子論理」
 かっくるなかしま  - 13/10/21(月) 12:05 -

引用なし
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   第36回は、かなりニッチな領域での論理についての話であり、ヒューズの紹介による「量子論理」を取り上げてみる。
URL省略。
(出所:「量子力学の新展開」、日経サイエンス別冊58、1983)
ー ヒューズの論考は、日経サイエンスに収録されているものの一つ。
ー 旧いものを取り上げておく今日的な意味は大きく二つあって、一つには、場の量子論の標準理論での業績が2010年代に入って評価が確定するに至り、標準理論が整った時期が1970-80年代であること、もう一つには、最近になって「量子コンピューティング」が新しいゲート構造/アーキテクチャの提案により、俄に脚光を浴びていること(注記、真偽を巡り論争継続中)。

ここでの論旨を予め明確にしておくと、

ー 我々は、古典論理(所謂、論理)を用いて思考を行うが、「実在」は必ずしもその古典論理には従わない。

ー それでもなお、我々が実在について語りうるのは、我々が論理について語っているのではなく、「モデル」(実在を模擬する仮説)を提示しつつそれについて語っているからである。

ー 「モデル」は固有の論理に支えられているが、通常の/暗黙に了解されている古典論理が劇的に破綻することを示すのが量子論理である。

ー それでもなお、古典論理から外れる論理を構築したり説明したりするうえで、古典論理の重要性は変わっていない。実在に対する認識の深まりとともに変化するのは、古典論理ではなく、モデルとそれが担う固有の論理の側である。

そういう話なのだけれど、高校1、2年の数学で習っている範囲のことでもあるので、
分かりやすくまとめてしまうと、

量子論理では、古典論理や算法(自然数論)で前提にしている「分配法則」が破れます。・・・★★ポイント

具体的には、

1)  pかつ(qまたはr)、ならば、(pかつq)または(pかつr)である、

2)  2x(3+4)=2x3+2x4

が成り立たない。

どういうことなのかをイメージで捉えるために、

3次元の空間を想像して、x軸、y軸、z軸を設定すると、

「古典論理」での、和(集合の和をとる)、積(集合の積をとる)では、

z∧(x∨y)は、原点です。
ー z軸と、x軸とy軸を合わせたものの、積をとる。

一方、分配法則を用いての、

(z∧x)∨(z∧y)も、原点となり、両者は論理的に一致する。

他方で、「量子論理」では、和は部分ベクトル空間を「張る」となり、積は部分ベクトル空間の交わりをとるとなり、

z∧(x∨y)は、z軸です。
ー z軸と、xy平面との積をとる。

一方、

(z∧x)∨(z∧y)は、原点です。
ー 原点と原点の和をとると、原点。
ー 注記。正確には、部分ベクトル空間の包含関係(束)を考えるので少しだけ込み入りますが省略しています。

量子という実在を記述しようとすると、古典論理での和の取り方を修正しなければならない、ということになりますが、それが「モデル」を構成する、ということに相当します。
ー 異なる種類の代数をやっています、で済む話でもあるが、論理に注目するとそういうことで、量子論理では、分配法則が破れるとなる。

簡単な話でもあるわけですが、実在というものを巡るその哲学的な意味は(byヒューズ、byヒューム)、

真理には大きく二つあり、

一つには、事実。必然も偶然も含めて起きていること=事実は、真理。

もう一つが、論理。

そして、「論理は事実に依らない、論理は事実とは独立している」と長年(約200年)、信じられてきたが、

そうではない、ということ。
ー  事実と論理の(独立した)関係を見直す必要がある、というより、事実と論理とが入り交じっているというのが、実在の在り方(のよう)だ、となります。
ー  世界は小説よりも奇なり、としておきましょう。

【10394】Re:第36回・ヒューズ「量子論理」
 かっくるなかしま  - 13/10/21(月) 19:25 -

引用なし
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   自己レスです。

あー、これ、真ん中の辺り、間違えてます(>_<)
ー  束(部分ベクトル空間の包含関係)を使わないと・・・追って部分訂正しますm(__)m

【10449】第37回・山下「思想の中の数学的構造」よ...
 かっくるなかしま  - 13/11/6(水) 12:28 -

引用なし
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   第37回は、山下正男(論理学者)の「思想の中の数学的構造」(↓)である。
URL省略。(禁止コードを含む模様)
(山下、同上、2006/11、筑摩書房)

その第II部「数学と思想の構造的共通性」より「解析学とヘーゲル」。

ー  つまり、ヘーゲルの正・反・合の数学的な意味、言い換えれば、それが数学の解析学(ニュートンやライプニッツ)からいかなる影響を受けているかという話。


自分も時々、マルクスやエンゲルスの弁証法を援用するが〜量は質に転化するの類〜それは、あくまで比喩や便法のうえでのことであって、そうした「仮説」の真実性を受け入れているわけではない。

むしろ、今日的には、ある種の複雑な系〜経済にせよ社会にせよ、生命にせよ環境にせよ〜の挙動は、上記の解析学、あるいは運動論の思想哲学では捉えられない、と観られるわけである。

ー   今日的には、局所的な概念から出発して系の大域的な性質(位相不変量)を得るという微分トポロジーの延長線上に、非線形な系の解明が待たれるという状況である、と観る。

ー   ただし、上記の「解析学とヘーゲル」には、部分と全体とを関連付けようとする、今日的なアプローチの原型が見られることも事実である。


さて、解析学とヘーゲルであるが、エッセンスを一言(一式)で表せば、こう(↓)である。

      ∫ v dt = L


ー 速度を時間積分すれば距離を得る。

ー あるいは同じことだが、∫ ρ dv = M、密度を体積積分すれば質量を得る。


加えて、ヘーゲル(やカント)は、積分を局面に応じて、「区分」することに意義を見いだした。

ー 車で移動して、途中、方向を反転したら、元に戻る。その場合、積分したら距離はゼロ。正・反・合の単純なケースである。

ー そのように積分区間を分割することは、カントやヘーゲルの感覚による。物事には、蓋然性(〜らしい)、当然性(〜である)、必然性(必ず〜である)という捉え方があるという感覚によっていて、適切に区分積分すれば、(必然的に)精緻な値を得られる(だろう)ということ。


更に加えて、上記式の距離も質量も、「外延」であるが(byデカルト)、物理の今の言葉で言えば、「示強変数」であるが、当時は(今も)示強変数を求めることに強い関心が置かれていた。

そうした中にあって、ヘーゲルは、上記式の左辺の速度や密度、つまり、「内包」、即ち「示量変数」に関心の重きを置いていた、と言ってよいだろう。

どういうことかと言えば、それら示量変数は、局所的な力学(場)のもとで定まるが、そうしたものを、喩えとしての「社会的関係の力学」に見立てる、といことである。

ー マルクスにおいては、外延を徹底して唯物論となるし、内包の社会的関係の力学を徹底して疎外論となるに至るわけだ。


そういう話であるわけだが、それは、部分と全体との関わり、という今日的に意義を持つ主題の嚆矢であるといえるのだが、同時にそれは(複雑な系を近似する)描像としてあまりに素朴に過ぎるわけである。

ー 今日的な思想(科学的方法論)においては、何かの対象を正しく測ろうとする時、測り方を正しく選ばなければならない。上記式で言えば、dtなりdvなりの選択、つまり、「測度」の選択である。ところが、その測度は、対象のことが分かって初めて正しく選ぶことができる。分からないものを測ることで分かろうとしているのだから、それは逆説的であるが、結局のところ、それをするには位相的次元を手掛かりに距離的次元に迫る、あるいはそれらの整合性を模索するとなる。(距離は微視的であり、位相は大域的な概念であり、微視と大域をどう繋ぐかという試みの内にある。)

【10451】第38回・川喜田二郎「発想法」
 かっくるなかしま  - 13/11/6(水) 17:06 -

引用なし
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   第38回は、川喜田二郎の「発想法」(↓)。
chuko.co.jp/shinsho/1967/06/100136.html
(川喜田、同上、1967、中公新書)

ー   余談であるが、同書は、駆け出しの頃、尊敬する先輩から「やるから必ず読め」と拝領したという経緯がある。

一言で言えば、「野外科学のススメ」であり、

野外科学が、通常の実験科学、書斎科学を補完することで、

三者がシームレスに繋がり、探究/探求のプロセスが創造的になる、という話。

野外科学とは、フィールドエンジニアリング、或いは現場の科学である。その特徴は、「観察」と「経験」という実践的性質にある。
ー   注記。その性質は実験科学に共通するが、相違は設定されている状況(環境)=実験場の純度、即ち、人工的理想的な実験室環境に比べ野外科学の実験場は、ノイズや未知の要素に曝される。

著者は、科学的方法論のプロセス(の性格)について、書斎科学を「推論演繹型」、実験科学を「仮説検証型」と特徴づける。野外科学のそれを、「仮説発想型」としている。
ー   注記。書斎科学(理論)のそれを演繹推論とすれば、野外科学のそれは帰納推論ともいえる。

科学的方法論のプロセスを更に細分化してみると、


仮説の再提示→ <探索→仮説発想> →仮説の再提示→演繹推論


→実験計画→観察(実験)→検証→仮説の提示(上に戻る)


である。

ー   <探索→仮説発想>の箇所が野外科学、仮説の提示や(演繹的)推論の箇所が書斎科学(理論)、実験計画→観察(実験)→検証の箇所が実験科学である。


手続きをかくの如く首尾一貫すべし、野外科学での仮説発想を軽視すべきでない、というのが筆者(川喜田氏)の主張であり、そのまま方法論となっている。

上記の細分化されたプロセスを途中から始めてサイクルを回してみると、

つまり、

仮説の再提示→演繹推論→実験計画→観察→検証


→仮説の再提示→探索→仮説発想→仮説の再提示(上に戻る)


と書き直しみると、それは、

plan → do → check → act →(頭に戻る)

つまり、今日の品質マネジメントの手法である「PDCA」サイクルにほぼ等しくなる。
ー   注記。今日のISO9001はまさにPDCAサイクルのススメである。 


さて、PDCAサイクルの難易性(ハードル)に言及しておくと、

実験科学や野外科学に相当するdoやcheckを回すことが、なかなか容易ではない、ということだ。
ー   注記。生産管理、品質管理でのいわゆるQC活動は、野外科学に等しいといえる。
ー   一般的に、難しさは、check(検証、仮説発想)しても、checkの結果を定量的に返せるとは限らず、従って、次にどうactしたらよいかの具体策を得にくいところにある。

ps

最後に想像を飛ばして付記しておくことにする。
ー   かなり余談だが派生しての感想でもある。第39回以降の繋ぎも兼ねる。 

<仮説設定1> 実験科学での対象、つまり、「モノ」が情報化してしまう、つまり、「ビット」になってしまうと。

ー   物理が事理になること、いわゆる事的世界観=関係性のネットワーク。
ー   典型的描像としての「ホログラフィー宇宙仮説」。アナロジーとしてのストークスの定理。

       ∫   dω = ∫   ω
        M      ∂M

ー   注記。3次元のリンゴの中身は中身自身だが、超リンゴの中身はほとんど皮に詰まっている。左辺は中身に注目し、右辺は皮に注目している。超リンゴの中身は皮にあるが皮そのものは観測にかからない。情報は皮にありその情報がすかすかの中身(スクリーン)に映し出される。

<仮説設定2> 野外科学での対象、つまり、(例えば)「社会」が情報化してしまう、つまり、「ビット」になってしまうと。

ー   PDCAサイクルをビットで回すことになる。ビットで回せれば、社会科学がようやく「再現性」を模擬の形で得るとなる。

【10457】第39回・ランダウ「力学」
 かっくるなかしま  - 13/11/8(金) 15:06 -

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   第39回はランダウの「力学」(↓)。
chikumasyobo.co.jp/product/9784480091116
(ランダウ=リフシッツ、「力学・場の理論」、2008/03、筑摩書房)

コンパクトでありながら、先見性に優れ、思索的な一冊。
ー    シリーズ(小教程、大教程)に通底しているのが、「変分原理」の威力。いきなり、そして、徹底して変分原理。同著の解説、p406、p414。

p14から始まりp16で最小作用の原理。つまり、いきなり変分原理。


   S  =  ∫  L(q, dq/dt, t) dt   ・・・ ★★


ー    系(システム)は、積分Sが可能な最小値を取るように運動する、というのが原理の内容。qは座標で、Sは作用、Lはラグランジアンと称される。


p23で、自由な質点のラグランジアンを決めるのだが、慣性基準系の同一性と慣性基準系での物理法則の同一性(ガリレイの相対性原理)を元に、つまり、空間と時間の一様性と空間の等方性を元に、Lがdq/dt=vの2乗に比例すると決めてしまう。


「物理学の全体を不朽の最小作用の原理のうちに捉える」というのがランダウの信念であるのだが、(同著、解説p414)

それが、上記のようにほぼ冒頭の箇所から徹底されるわけである。

そういうやり方を採っている、ということが全てと言ってよいのだが、← 感想

なぜ、そうするのか? あるいは、それがそこまで強力に有効なのか?について、ランダウは明示していない。

最小作用の原理が、全体を統べ、同時に、各論を駆動するほどに強力なのは、

つまり、「指導原理」たりうるのは、

いったいなぜなのだろう?


上記の式(★★)を眺めると、とても興味深い。

それに極値/停留値を取らせるようにすると、

一般化されたニュートンの運動方程式(ラグランジュ方程式)が得られるが、

ニュートンの運動方程式は、局所的な法則だった。
ー    初期条件を与えると、軌跡が決まる。

ところが、上記の式は、あらゆる軌跡を含んでいる。つまり、軌跡という線にとどまらず、空間全体(軌跡の集合)を含んだ表現の形式を採っていることになる。

つまり、系(システム)の、全体と部分とを、大域と局所とを繋いでいるわけである。

物質場があるという場合、時空は歪むから、最短経路は測地線が直線に取って変わるが、

最小作用の原理は、あらゆる軌跡を許容しているから、測地線を選び取ることができる。
ー    であるから、上述で、自由な質点のラグランジアンの形を決める際の、ガリレイ慣性基準の仮定を取り払っても、最小作用の原理は、慣性基準に依らない、非慣性基準でも通用する、と押し通せる。


系の局所的な法則と大域的な性質がどう繋がるかは、

対象とする系が違っても、普遍的な命題だ、

と自分は捉えていて(つまりは信念)、

トランジスタからコンピュータが、細胞から知能が、労働から経済が、個人から社会が、生物から生態系が、単語から言語が、音から意味が、単純なものから複雑なものが、部分から全体が、一から多が・・・

これらのそれぞれには独自の論理(準同型写像)や、論理を備えた階層同士の繋がり(半同型写像)があるにせよ、


部分と全体を統べるには、部分が生成的に全体と関わるには、

なんらかの固有の指導原理が必要(なはず)であり、

物理学においては、最小作用の原理がその指導原理に相当し、
ー     それでもまだ何かが足りていない、にせよ。

それを明確に強力に打ち出しているのがランダウなのである。

【10465】第40回・竹内薫「世界が変わる現代物理学...
 かっくるなかしま  - 13/11/10(日) 11:17 -

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   第40回は竹内薫の「世界が変わる現代物理学」(↓)。
chikumasyobo.co.jp/9784480061935/
(竹内薫、同上、2004/09、筑摩書房)

概要は後述とするが、

同書の後書き(おわりに)の冒頭にある「脳は物理的世界の構造を写し取ってきた」(p219)の箇所とくだりが、自分にとっての主たる関心事項、
ー   つまり、おわりにがはじまりに相当する。
ー   何らかのはじまりは、何らかのおわりにを前提とするが、同書を取り上げているのは、全ての物事の始まりに相当する「ものとは何だろう?」という物の見方(存在の在り方)についての見方が、大きく変化している、というのが同書の趣旨であり、世界が変わるという表題であるから。← 論旨と趣旨はこれに尽くされます。

さて、概要を各章ごとにコンパクトに。

第一章、思索としての物理学。
ー    それ(物理学)は思想以外の何者でもありません。
ー    注記。世界は「モノ」ではなく関係なのだ、つまり「コト」なのだ、というのが同書の論旨/結論であり、同時に、世界(観)が変わっている、ということの意味なのだが、その嚆矢としての電磁場を取り上げている。

第二章、SF的世界観への前哨。
ー    科学思想では、実在論と実証論とがせめぎあい続けてきた。
ー    実在論は、「奥底に隠された実在がある(はずだ)」というリアリズム。実証論は、「データと数学と論理しかいらない(はずだ)」という(究極の)経験主義。
ー    著者は、物理的世界観が上記の実証論に鞘寄せしている、という論旨。(それが世界が変わる、の意味であると同時に、それはリアリズムから遠ざかるため、SF的だとしている)
ー    注記。自分(私)は、実在論の立場。実在論は納得という感覚に拘る。実証論は納得の感覚より、納得できなくとも説明できればよいという感覚。

第三章、ピカソと相対性理論。
ー    特殊相対性理論の話。省略。
ー    注記。思想史としてフッサールらの現象学に関わっている。間主観性という概念が、特殊相対性理論の相対性に対応するからであり、それらは、1950年代以降の構造主義のルーツ。正確には、現象学と特殊相対性理論の間に、クラインのエルランゲンプログラムが挟まる。

第四章、量子は踊る。
ー    量子論の話。省略。ボーム流の実在論による解釈の紹介がユニーク。

第五章、世界はループからできている。
ー    世界を実証論的に捉えた場合の、究極としてのループ量子重力理論(による世界描像)の紹介。
ー    者(モノ)と物(モノ)は独立していなくて、存在しているのは、モノとモノとの関係だ(それすなわち、出来事としてのコトだ)という論旨を再確認している終章だが、ループ量子重力理論の真骨頂は、そのリアリティを否定しにくい時空ですら、抽象的な概念同士の関係から導こうとするところにある。
ー    注記。自分(私)は、それ(ループ量子重力理論)に疎く、著者の解説を読んでもよく分からない。


実は、本書の著者らしさは、イントロ(はじめに)の箇所にある。

著者はファイヤーアーベントの影響を強く受けていて、イントロで、全体の繋がりと要点を俯瞰する、という作業を行っている。
ー    それは、世界がコト的だ、関係なのだ、ということを、ノンフィクション内ノンフィクションの形で、実践しているわけだ。同じく著者は、ファイヤーアーベントの「目次が要約である」という方法論も重ねてイントロで実践しているわけだ。ただし、著者は、目次を要約にするという試みを既に著者による「99.9%は仮説」でやってしまっているので、それは本書では繰り返していない。

併せて、現実がSF的であることを、著者は、本書にて、ノンフィクション内フィクションを提示して実践してもいる。(第四章)


全体を通して、世界のメタ構造(現実と虚構の往来)を主題としているが、

同時に、著者は、本書自体の構成にメタ構造をとらせることで、

コト的世界観を読者に提示しようと試みているわけだ。そういう労作。

 

【10483】第41回・野崎昭弘「詭弁論理学」より強弁...
 かっくるなかしま  - 13/11/16(土) 12:29 -

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   第41回は、野崎昭弘(情報数学)の「詭弁論理学」(↓)。
kinokuniyaco.jp/f//dsg-08-9870009441
(野崎、同上、1976/10、中公新書)

野崎氏の著作には、「ゲーデル、エッシャー、バッハ〜あるいは不思議の環」(訳書、1985、白揚社)、「不完全性定理」(1996、日本評論社)などお世話になっているが、これは、最初にお世話になった今では古典的ともいえる名著。

同書は幾度か断片的に取り上げてきたが、目下のヲチの成り行きもあり、改めて、ただし、「強弁」に絞って取り上げます。

まず、詭弁と強弁の違いから。(第一章)

強弁は、理屈抜きの押しの一手(笑 

詭弁は、多少なりとも論理や常識を踏まえて、(白を黒に)丸め込む、です(笑

つまり、多少なりとものそれがないと、詭弁にすらならない(爆


第三章が本書の主題である「詭弁術」だが、詭弁未満のことに直面することが多々あることから、また、第21回で詭弁を取り上げていることから(香西、「論より詭弁」)、今回は割愛。
ー    それでも、三段論法には256通りありそのうち正しいのは24通り、といった面白い話があるので残念(>_<)


第四章は、応用編としての論理遊び。これも第20回で論理パズルを紹介しているため(小野田、「傑作選」)、今回は割愛。


さて、今回の目玉の第二章、「強弁術」です(笑

・・・動物の世界に強弁も詭弁もないです。強いものが勝つ、なので。ヒトも大昔はそうだったが、最近になって、社会制度が整って権利やら義務やらが煩くなると、強弁や詭弁が発生する・・・

かなり秀逸な笑えるイントロです(↑)。


手短にいくことにして、

(話題の)小児病型の強弁、

それは、「自分が言いたいことをひたすら言いつのる」、でした。

そして、その小児型強弁の原因は、

1) 自分の意見が間違っているかもしれない、なんて考えてみもしない。

2) 他人の迷惑や気持ちを考えない、わからない。
ー    状況が読めない、と言ってよいでしょう。

3) 世間の常識など眼中にない。

4) 自分が前に言ったことさえ、忘れてしまう。

なのであると。

心当たり、思い当たる節は、あるでしょうか?(笑
ー    なんかもうそのものズバリというかなんというか、というのが自分の感想。相手していて一番困るのが、4)の忘れる、ですけど(笑 

で、その原因のそのまた原因というのがあってそれは、

1) 自信が強すぎる。

2) 好き嫌いの感情が強すぎる。

3) (他人に対して)極めて無神経である。

この(↑)構図というのは、極端に高い感度と低い感度とが合わさってしまって、思い込みの強さを治せないってことでしょう。


話は概ね以上ですが、

頻出する残りの強弁のパターン(類型)に軽く触れておくと、

人々や考え方を、ある原理的な基準で分けてしまう「二分法」。
ー   善と悪との谷間にさ迷う凡人(つまりは我々)を、十把ひとからげに悪人扱いしてしまう、魔女狩り、異端審問。人間の実情を無視する、ってやつ。

それと、

相手の言い分を、不釣り合いな言い分で帳消しにしてしまう「相殺法」。
ー   使用例。「ここは駐車禁止だぞ」、「お前は車を止めたことがないのか」。
ー   使用例。「天皇に手紙渡すなよ」、「お前は手紙を書いたことがないのか」/「手紙を出してはいけないのか」。


小児病型強弁、二分法、相殺法、以上が強弁の代表的類型。
ー   この種の強弁ばかりだからなー、少しは意見ってもんを出せよ意見ってもんを、ぶつぶつ(笑


詭弁論理学からの実用的エッセンスは以上です。
ー   一見、無駄で無意味な現象のうちにも、それなりの意味や論理や存在理由がある、というのが自分の見方です。 

香西秀信「論理病を直す!」に続きます。

【10544】第42回・マンデルブロ「禁断の市場」
 かっくるなかしま  - 13/12/1(日) 14:00 -

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   第42回は、マンデルブロの「禁断の市場」(↓)。

URL省略。
(マンデルブロ/ハドソン、「禁断の市場〜フラクタルでみるリスクとリターン」、2008/06/、東洋経済新報社)

東洋経済新報社による紹介が今一つなので、松岡正剛氏による書評を添えておくとこちら(↓)。
ttp://1000ya.isis.ne.jp/1339.html
(松岡正剛、千夜千冊1339夜、同上)

邦訳が発刊されているのは、リーマンショックの前。原著のそれは、リーマンショックの素因をなした証券化バブル(エキゾチックオプションスキャンダル)の全盛期(2006-2007)である。

禁断の市場、とあるように、金融市場の常識(慣習や理論)に対し批判的であるが、

単に批判、否定するというものでは全くなく、← ウンザリするの類いではなく

その常識を検証し対案を提示する試みの記録書。
ー   著者は、フラクタル幾何学の創始者であり、独創的。本書もその創造の過程を辿り独創性が随所に垣間見られる。

筆者(かっくる)の読解では、著者からのメッセージは、大きく二つ。

その一つが、「現実を模倣し、その性質を理解する。」
ー     同書、p40、第1章リスクとリターン。
ー     裏返せば、経済学および金融工学は、現実を模倣(模擬)しておらず、従って、金融・資本市場の性質を把握仕切れていない。

もう一つが、「金融の世界の悪習を絶ち、科学のメスを入れよ。」
ー     同書、p335、第13章実験室にて。
ー     悪習とは何か、悪習が蔓延する(あるいは受容される)理由はなぜか、科学のメスとは何か、これらが、同書の主題である。

三部構成から成り、

第一部が「たどってきた道」、第二部が「新たな道」、第三部が「これからの道」である。

その第二部で筆者は、新たな科学のメスとして、著者自身が創始したフラクタル幾何学の金融市場への応用として、マルチフラクタルモデルを提示するが、本稿では、省略し、別途、次回以降の「フラクタル数学」、「カオスと資本市場」などでフォローしたい。

第三部では、禁断の金融10カ条が取りまとめられているが、それは第一部(金融の世界の悪習)と第二部(新たな科学のメス)が合流しての帰結である。

金融・資本市場のいったい何が問題なのか?は、第一部に集約されているので、本稿ではそのエッセンスを紹介し、論評を加えることに集中したい。

第一部より、著者マンデルブロが見る金融・資本市場の「根拠なき仮定」。

仮定1 人間は合理的であり、豊かになることだけを目的としている。

仮定2 投資家はすべて似たり寄ったりである。

仮定3 価格が急変することはない。

仮定4 価格の変動はブラウン運動である。

以下はそれらについての補足と論評であるが、

著者が指摘している4つの根拠なき仮定、つなり、仮説の非現実性という指摘は、筆者(かっくる)の経験的には、全て正しい。

仮定1は、効用関数にヒトは従うというモデルであるが、近年、それは修正されてきており、それが「行動経済学」である(p129)。ただし、筆者(かっくる)の見るところ、行動経済学は、ヒトの非合理性に注目するが、非合理性はどこまで非合理的なのか、という課題(詰め残し)を残していると観る。

仮定2は、合理的な個人の総体が市場だというモデルであり、著者は異質な投資戦略を持つ参加者を想定すると市場に非線形性が生じると指摘する(p131)。
ー    筆者(かっくる)は、仮定2は、力学的世界観(気体分子運動論)を想定しており、実際の我々の観測対象である市場は、熱力学的世界像に近いため、力学と熱力学のギャップに相当する部分が埋めきれていない、と観ている。
ー    さらに言えば、両者を繋ぐ統計力学自体、その基礎(エルゴード性の周辺)が十分に固めきれていないため、物理学を参考にする経済学の側のモデルが足踏みしているわけである。

仮定3の連続性の仮定は、筆者(かっくる)の主要関心事項の一つである。著者マンデルブロの指摘で面白いのは、この仮定は「自然は急には動かない」という古典派の標語に由来するという箇所(p132)。であるがゆえに、所謂「ショック」を記述しえず、イレギュラーもしくは稀な現象として理論は処理するが、その稀な現象/事象は、理論が想定しているほどに稀ではないから、なぜだろう? どうしよう? というのが本書の一貫した主題となっている。
ー    平均値と分散のパラメーターで母集団を代表させてみる、という方法論には、それは有効であっても同時にそれだけでは限界があるから、だからこの10年、新たな統計処理としての「ベイズ推計」が注目されており、それが筆者(かっくる)の主要な関心事項の一つである。

仮定4は、酔歩(ランダムウォーク)である。それは、更に3つの仮定に基づいていて、過去の価格は現在の価格に影響しない、価格変動は統計的に定常である、価格の変動幅は正規分布する、の3つである(p133)。
ー    3つの仮定は順に、時系列が、マルコフ過程に従う、マルチンゲール性を持つ、ウィーナー過程に従う、となる。更にその最後の仮定(ウィーナー過程)こそが、全ての金融工学の基礎である。

著者マンデルブロの主張を筆者(かっくる)なりに整理すると、

「現実をよく見て、正しい仮説を導入しよう。仮説が正しいものに近づけば、現実をよりよく模倣できるはずだ。さすれば、誤りある仮説は取り除かれて行き、さすれば、金融市場の悪習を絶つことができるはずだ。」

市場は往々にして誤り、近年ではその影響力の大きさから、市場が誤ると、

その犯人探しをするとか、責任者を懲罰するとか、市場を規制するとか、市場そのものを否定するとか、闇の勢力の陰謀に帰するとか(笑、

往々にしてイージーな解決にならない解決法に逃避しがちであるが、

そうではなく、悪しき箇所は正しく改め、その積み重ねで全体プロセスを正常化し発展させる、

そうした哲学と処方箋を示しているのがこの「禁断の市場」であり、かくなる意味で希少性を備えているという筆者(かっくる)の読後感である。

【10556】第43回・石村「ブラック・ショールズ方程...
 かっくるなかしま  - 13/12/2(月) 15:15 -

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   第43回は、石村貞夫、ブラック・ショールズ方程式(↓)。
tokyo-tosho.co.jp/books/ISBN978-4-489-02040-7
(石村貞夫/園子、「ブラック・ショールズ微分方程式」、1999/7、東京図書)

前回のマンデルブロ「禁断の市場」で、金融工学の前提について(批判的な文脈で)取り上げたが、今回は、所謂、金融工学の基礎であるブラック・ショールズ方程式について。
ー   著者の石原氏は、実用的な数学書を数多く出しており、筆者(かっくる)も統計や微積分の入門書では高校1、2年に同氏の著作にお世話になった。

なぜ、それを取り上げるかであるが、

金融・資本市場を批判するにせよ基本を押さえておく必要はあると思うし(さもないと不毛な批判に終わるし)、

何よりも、過去の25年、金融・資本市場で、「何がどうやって起こってきて今に至っているのか?」を知る上で、ブラック・ショールズ方程式(以下、BS方程式)は、象徴的な歴史的素材であるから。

同書によるBS方程式の「勘所」に入る前に、

金融・資本市場で何がどうなっていたか?と言えば、

過去の四半世紀を通じて、「負債」(debt)の成長よって、金融・資本市場を膨脹させて、そのおカネを梃子に実体経済を回す「負債主義」の経済であったということ。
ー   それは四半世紀前から、予見されていた。
ー   その過程で派生したのは、金融市場(負債市場)と資本市場(株式市場)とが、債務(負債)の「証券化」で融合し、同じことだが負債と株式とが派生商品を通じて強く結び付くようになった。
ー   現象論として、負債主義であったから、リーマンショックも欧州ソブリンショックも、いずれも住宅ローン、国債といった負債市場の崩壊現象なのである。

そして、BS方程式が果たした歴史的役割は何だったのか?と言えば、

負債や株式といった資産を守る(ヘッジする)ために創造された新たな負債を根付けしたり、負債を分割(証券化)した商品や更にその商品を証券化した商品、これらに「値段」をつけたりする、それはそういう役割を担っていたということ。
ー   注記:負債は債権者から見れば(当然)資産。また、資産をヘッジをするには、仮想的なマイナスの資産(擬似的な負債)を創り、資産をヘッジする側は、その負債を敢えて購入し金利を払う。逆に、その擬似的な負債を売る側は、金利を得る。言い換えれば、「リスク」を商品にして、リスクの交換をしている。そして、そのリスクは、債券や株式という原資産をもとに創造され、それらの根付けをBS方程式が担った。

以上が、過去の四半世紀に金融・資本市場で何がどうやって起きて今に至っているのかの、(ほとんど)全てである。
ー   俗説のように新自由主義が、とか言って批判しても、それでは(新自由主義的でない)欧州のソブリンショックがまるで説明できない。負債主義が行き詰まったから、となる。

さて、本題(笑 のBS方程式であるが、同書の良さは、それを理解する上での「勘所」を平易に示しているところにある。

勘所とは、

株価(原資産の価格)が「伊藤過程」(より一般化されたウィーナー過程)に従う時、派生商品の価格の「変化」は、「伊藤のレンマ」に従うのだが、その伊藤レンマの証明に際して、"変数が確率変数である場合、その変数は確率分布の制約を受けるから、通常の極限操作とは差分の収束の仕方が異なる"というとろ。(p121、p133、p136、p137)
ー   具体的には、派生商品の価格の変化Δfをテイラー展開する時、それは株価の変化ΔZについての多項式で展開されてゆくが、一次近似項でのΔZが正規分布に従うのに対し、二次近似項での(ΔZ)^2はχ二乗分布に従うところ。
ー   筆者(かっくる)の見るところ、BS方程式を理解する上で、ここだけがハードルです。

最後に一点、同書の類書にない良さは、ブラックとショールズの共同での原論文を掲載していて、本文中の解説で適切な対比を行って、原論文を理解できるように構成されているところ。
ー   特に、ブラックとショールズの原論文は、「オプションの価格設定と企業債務」とそのものズバリの標題となっており、冒頭の箇所には、"特に公式は、債務不履行の可能性を考慮した社債の割引率を引き出すのに使用されます"とあって、BS方程式の果たした歴史的役割、存在意義を強く感じさせる。
ー   なお、前回の「禁断の市場」との繋がりでは、BS方程式が前提としている伊藤過程、更には伊藤過程が前提としているウィーナー過程に、実際の原資産価格が従うと想定してしまって果たしてよいのか?(そうではないだろう)となるわけです。

【10557】第44回・プリゴジン「混沌からの秩序」
 かっくるなかしま  - 13/12/2(月) 18:24 -

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   第44回は、プリゴジンの「混沌からの秩序」(↓)。
msz.co.jp/book/detail/01693.html
(プリゴジン/スタンジュール、「混沌からの秩序」、1987/6、みすず書房)

プリゴジンによる一連の著作はおそらくは筆者(かっくる)の自然観/世界観の形成に強い影響を及ぼしていて、同著はそのうちの一冊。
ー    「構造・安定性・ゆらぎ」、「散逸構造」が専門家向けであるのに対し、「存在から発展へ」と同著「混沌からの秩序」が一般向け。
ー    恥ずかしながら、高校時代に、"世界は、フェルマーの最小作用の法則、熱力学の第2法則、ルシャトリエの原理、この3つの原理で説明できる"などとと信じていて、プリゴジンの著作は、後者の2つの原理の自然な延長線上にあって出会うということに。

同著の前書きを文明論者のトフラーが寄せているように、そのカバーする領域は、科学にとどまらず、文明、社会、歴史、宗教、哲学に及ぶ。
ー   これは、もちろん、プリゴジン自身が、専門化/分科してしまった学問をかつての神学/スコラ哲学のように再統合しようと試みているからであるが。

カバー領域があまりに広いため、「普遍性の妄想」、「複雑性の科学」、「存在から生成へ」の3部構成中、今回は、第1部、第2部については簡単に言及するにとどめ、もっぱら第3部の「存在から生成へ」、更にはその第8章〜第9章に絞ることにしたい。
ー   この第3部が、筆者(かっくる)の主要な関心事項である金融市場や知識情報処理に関わっている。

第1部では、科学がヒトに迫る悲劇的で形而上学的な選択、を(科学史の帰結)として取り扱う。西欧史における価値観の分裂と対立の命題でもある。
ー    選択とは、1)人間の価値の保証あるいは、基本的な連帯性を指し示す徴候を探したいという力強いが不合理な誘惑、2)人間を沈黙した世界に隔離する合理性への忠誠、このいずれかである。(p71)
ー    プリゴジン自身は、2)を選ばない。しかし、1)でもない。科学が拠って立つ基礎を再検討し、これら二者択一の選択や文化の対立を解消しようと試みている訳であるから。
ー    学説(仮説)の基礎を再検討し、学説の再構築を試みるという姿勢や営みは、前々回で取り上げたマンデルブロと同様であり、プリゴジンは複雑な化学反応系や生命系をモデル化や応用の視野に入れ、マンデルブロはと言えば金融経済系をモデル化や応用の対象としているわけである。

第2部は、平衡の熱力学理論の拡張と周辺領域を含むトピックスである。
ー    静的な熱力学的均衡の理論を動的なそれへと拡張する。内容的にはほぼ1/2が著者による「構造・安定性・ゆらぎ」の説明、残りは所謂、「カオス力学系」、「複雑系」のトピックスである。

さて、第3部であるが、その第7章の冒頭箇所に、著者の意図と同著の結論(最も言いたいこと)が記されている。

即ち、"存在(ある)と生成(なる)の対立という学説の衝突は新しい転換点〜新たな総合の時期〜に来た"、である。(p284)

プリゴジン「混沌からの秩序」より「学説の衝突」、に続く。

【10634】第45回・石村「フラクタル数学」
 かっくるなかしま  - 13/12/20(金) 17:45 -

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   第45回は、石村貞夫/園子の「フラクタル数学」。
URL省略。←版元の東京図書で確認できず(>_<)
(石村、「フラクタル数学」、1990、東京図書)
ー 著者は、第43回・「BS方程式」と同じである。BS方程式は、いわゆる金融工学本であったが、こちらはさしずめ反金融工学本の基礎となる。

第43回でマンデルブロの「禁断の市場」では、金融理論や金融工学の仮説前提が背負う限界を取りあげた。主として第一部。

その第二部「新たな道」はマンデルブロ自身が開拓した幾何学の金融領域への応用であり具体的処方箋としてのマルチフラクタルモデルであるが、その理解に至る上でのハードルが若干高い。

そこへの橋渡しとして適切な内容を備えるのが、今回のフラクタル数学である。

第一章「自己相似なフラクタル」、第二章「いろいろな次元とフラクタル」、第三章「パソコンで描くフラクタル」、第四章「自然の中のフラクタル」の全4章で構成されているが、

類書の分かりにくさは、上記で言えば第三、第四章相当の内容に飛躍してしまうところにある。

また、Wikiにあたる場合、「(完全自己)相似次元」からの天下り的定義となっている。

同書のよさ/フラクタルの勘所は、第一、第二章にあるわけだが、ポイントを列挙し、後から補足すると、
1)   図形(や集合)の列、或いは作図の過程を、途中の段階で観るのと、極限(操作として∞まで)絞って観るのとでは、まるで様相/姿が違ってくる。

2)   「カントール3進集合」の作図過程を一般化して、自己相似集合を構成してみる。

3)   「スギの葉」の作図過程を一般化して、2)とは異なる方法で自己相似集合を構成してみる。

4)   「バラの花」や「カリフラワー」の作図過程を一般化して、内部自己相似集合を構成してみる。

1)〜4)では、直感的に捉えにくい図形や複雑な自然造形の姿を捉えようとしているわけである。同時に、集合という言葉が出てきているように、図形の長さや面積を抽象化して捉えようとしている。
ー   図形の長さや面積は、集合概念に接近してゆく時、より抽象的な「測度」の概念に転じる。つまり、(ルベーグやカラテオドリの)測度論を避けて通りにくいが、実例と集合の構成を並行させることで、同書は難度を上手く下げている。

上記4)では、包含関係にない集合列から、共通集合を作ることで包含関係を作り出し、極限集合に至る(下極限集合、上極限集合を構成する)というところが、本来、直感的にわかりにくい(唯一の)箇所であるが、同書は豊富なグラフィックな説明で難所を上手くクリアしている。

肝心のフラクタルは、第二章の後半に出てくる。

5)    図形の特徴をまず「位相次元」で捉え、次いで「ハウスドルフ次元」で捉え、図形の本性に接近してゆく。
ー    複雑な図形では、ハウスドルフ次元が「フラクタル次元」に相当する。フラクタルはフラクタル次元を持つ図形。

上記5)であるが、位相は距離抜きであるから、対象を測る尺度として足らない。位相は目安に過ぎない。であるから、閉集合による被覆という概念を通じて距離を導入し、更にはk乗和という拡張された距離で測ってみよう、となっている。

フラクタル次元を使って、図形の特徴を測るということはいったいどういうことか? と言えば、筆者(かっくる)の理解では、

「それは複雑な図形の次元を測る尺度なのだけれど、図形が複雑でその複雑さを予め知らなければ測る尺度を選べない。対象を知りたいのに知るためには対象を知らなければならない? さて、どうする? それを可能にするのが可変な測度であり判定条件を備えたハウスドルフ次元である」、となる。

ではそれはどう役立つのか?

図形をある系(システム)の運動の軌跡としてみると、

軌跡のハウスドルフ次元は、系(システム)の挙動の本質的な性質と不可分である。
ー    典型的には、力学系がポアンカレの再帰性を備えるのか、それともエルゴード性か、初期値鋭敏で決定論に従いながら予測不能なカオス性を備えるのか等。
ー    つまり、系(システム)の挙動の背景に迫る。

そして終章の「自然の中のフラクタル次元」。

ここが自然物の造形に潜む複雑な規則性のみならず、マンデルブロの応用領域である金融資本市場での価格変動性に繋がってくる。
ー    金融資本市場で観測される時系列の不規則性をホワイトノイズとして済ますのではなく、フラクタル次元で捉える、つまり、複雑なスペクトルをフーリエ変換に依らずに捉えると、金融資本市場の力学系としての性質が理解でき、理解が進めば予測(や制御)が可能となるはずだ、というロジック。

そして、自然の中のフラクタルを捉えようとすると、

ある種の近似を行わなくてはならなくなるが、そこで用いられるのが「巾乗則」の仮定である。

それでは自然(の造形や現象)や金融資本市場は、巾乗則に従うのだろうか?
ー    不思議なのだけれどその答えはYes。


   

【10636】第46回・井田「地震予知と噴火予知」(そ...
 かっくるなかしま  - 13/12/21(土) 12:56 -

引用なし
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   第46回は、井田喜明、「地震予知と噴火予知」(↓)。
.chikumasyobo.co.jp/product/97844800946366/
(井田喜明、同上、筑摩書房、2012/06)
ー    著者の井田氏は、地震予知、噴火予知の専門家中の専門家。

第45回「フラクタル数学」の最後にこう(↓)申し述べましたが、

>そして自然の中のフラクタルを捉えようとすると、ある種の近似を行わなくてはならなくなるが、それが「巾乗則」の仮定である。・・・★★

>それでは自然(造形や現象)や金融資本市場は「巾乗則」に従うのだろうか?

噴火予知は割愛し、東日本大震災後の地震予知の最前線で、何が問われているのか? フラクタルとどう関連するのか? 整理・紹介しつつ、いったいどういうことなのか?につき、私見を合わせ申し述べます。


著者の井田氏は、第一章「東日本大震災の教訓」で大きく二つの指摘を行っていて、

一つが、地震予知を担当する組織の問題。
ー    第四章(終章)「予知の展望」に繋がる。本稿では噴火予知と組織体制については割愛。

もう一つが、地震予知の基盤としての科学的理解の脆弱性。
ー    井田氏は、"今回の失敗は、地震の発生を単純な周期性で無理に割り切ろうとしたことである。だが、それに代わる理解の枠組みは確立されていない"と指摘する(p52)。
ー    同書の主要テーマである第三章「予知の科学」に繋がる。


以下、若干の数式を交えるが、筆者(かっくる)の言わんとしようとするところは、

「金融理論や金融工学での仮説前提の問題(誤り)は、(井田氏が指摘する)地震予知科学の課題と、性質を全く同じくする」、ということ。・・・★ポイント
ー    それに準じて、見かけの全く異なる両現象であるが、現象理解と予測/制御/予知において、「巾乗則」が(新たな)仮説前提をなす、ということ。

まず、冒頭の★★印の箇所での「巾乗則」の中味から。

それは、図形(X)の特徴を測る時に、ある種の近似を行っているのだが、

典型的には、図形(平面上の曲線)の次元を測る場合、

1) 長さdの線分で折れ線を作り、曲線を近似する。←よくあるやり方

その場合、ハウスドルフ測度は、

     M(k、X)≒lim {N(d)・(d^k)}
           d→0

で、近似される。
ー    Xは曲線、N(d)は折れ線の数。dのk乗のkは曲線を特徴づけるパラメータで、最終的にはフラクタル次元k0に。

2)    上記式で、線分dを小さくしていくと、当然、折れ線の数N(d)が増えるのだが、(d→0なら、N(d)→∞ のイメージ) 

その時に、

     N(d)=μ・d^(-k0)     ・・・★1

という関係がある、と仮定してしまう。
ー    折れ線の数が、dのマイナスk0乗に比例する、と仮定する。k0はフラクタル次元。

ー    この仮定が、フラクタルでの「巾乗則」に他ならない。そして、この仮定は、測りにくいものを測るための手段、便法に過ぎず、それが適切かどうかは、観測と予測を通じてしか検証しえないという意味で、作業仮説。・・・★ポイント

後ほど、地震の予知に関連して、極めて類似の現象論的法則が出てきて、それを著者の井田氏は、"巾乗則に従う現象"、"フラクタルと呼ばれる性質"とするが、

一点、留意する必要があるのは、上記式★1での「巾乗則」とは、測り方についての作業仮説であり、

これに対して、後ほど出てくる巾乗則〜地震のエネルギーと頻度の関係、断層面積と頻度の関係など〜は、マクロ(巨視的)な変数の間に見られる関係である、ということ。

つまり、測り方の話(ミクロ)と、測った後の関係の話(マクロ)とが、同じ巾乗則とかフラクタルとかの言葉で説明されているが、

正確には両者は異なっていて、

けれども両者を同じように語ってしまえるのは、

巾乗則とかフラクタルとかの性質(の本質)が「自己相似性」にあるから。
ー     盆栽のように、あるいは株価の月足・週足・日足のように、部分と全体とが似通った形にある現象だから。・・・★ポイント

その2に続きます。

【10645】第47回・井田「地震予知と噴火予知」(そ...
 かっくるなかしま  - 13/12/22(日) 15:32 -

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   第47回は前回の続きで、第三章「予知の科学」に焦点を合わせます。

第三章は、6つの節、つまり、

予知の可能性を考える比喩、地震の統計則、予測可能性とカオス、

地震と破壊、地震発生場の性質と形成過程、

噴火予知の科学、

以上の節から構成されますが、噴火を除くと内容としては、

1) フラクタルとしての地震

2) 地震発生場のモデル

大きくこの二つとなりそれらが並行しています。

前稿も本稿も、1)を主題に据えていますが、2)にも井田氏の指摘として興味深い点があるため、最初に簡単に触れておくと、

ー  地震の規模が多様なのは、断層面(の応力や強度)に不均質性があるからだ。
ー  強度の不均質性が地震学で最も注目されている。バリアやアスペリティ。
ー  地震予知では小さい地震より大きい地震をターゲットにする。そして、地震の規模は、発生ではなく「停止」で決まる。しかし、地震学での関心は、発生に偏っている。

この最後の指摘箇所(↑)が、筆者(かっくる)にはとても興味深く、それは、金融資本市場に対比してみると、巨大な変動(バブル崩壊)は、いつ終わるのか、なぜそこで止まるのか、どうすれば食い止められるのかに繋がると観ているため。

さて、1)のフラクタルとしての地震ですが、やや駆け足で行くと、

地震の相対頻度nと地震のマグニチュードMとの間には、現象論的経験則として、「グーテンベルグ=リヒターの関係式」が成り立つ(↓)。

       log n(M) = a - bM  ・・・★2

ー   注記。これがフラクタルとしての地震、の全てと言ってもよい。加えて、aとbは観測で決まってくる定数であるけれど、「地震の統計則」、つまり、地震が従う確率分布を決める重要なパラメータが、定数b。

やや天下り的に、地震のマグニチュードMとエネルギーEの関係式、

       M = (1/1.5)・log(E/E0)

を上記★2に代入すると、地震の頻度nとエネルギーEとの関係式、

       n(E) = A・E^(-p)

を得る。
ー   Aは定数。p=2b/3でbを通じて分布が決まる。

同様に、断層面積の平方根をLとしてエネルギーEはLの3乗に比例するという経験則を用いると、

       n(L) = B・L^(-q)   ・・・★3
  
    Bも定数。q=2b+1でbを通じて分布が決まる。 


最後の2つの式で、地震の頻度が、エネルギーや断層面積の「巾乗の形」を取るので、

これら両式から、"地震(の頻度)は「巾乗則」に従う"、と言われているし、

やっと前稿の測度としてのフラクタルに繋がるが、前稿での式★1との類似から、

"地震はフラクタル性を持つ"となる。

さて、ここから本題となるが、

頻度分布が巾乗則に従うということは、指数函数であるガウス分布(正規分布)より弱いから、ガウス分布を前提にした頻度予測に対して、

1)  小さな地震はもっと多い、

2)  大きな地震はもっと少ない、

という結論に導かれる。
ー    巷で心配されているほどには、大きな地震は多くないのだ。・・・★ポイント

更に、井田氏の指摘によるなら、(p158、p159、p163)

a)  上記式★2で、一般には、 b≒1 であることが分かっている。

b)  同じく、破壊の一般的な統計法則では、★3式でq=3、従って、b=1 であると、考えられている。

c)  断層の不均質性はフラクタル次元で表現される。地震のフラクタル次元はbの値の2倍であると見積もられている。

a)〜c)を総合すると、

「bの値は約1であり、地震のフラクタル次元は約2である」、となる。

冒頭の式★2に立ち返ると、b=0 は、地震の頻度は規模に関係ないことを意味する、つまり、大きな地震も小さな地震も同程度で起きることを意味する。(それはあり得ない)

つまり、bの値が小さいと巾分布の裾野が長く、大きいと裾野は長くとも頻度は著しく小さい。

これ(↑)は、地震の予知や防災の観点で、極めて重要である。・・・★ポイント

なぜなら、

巾分布の元では、大きな地震の頻度は多くないのだが、

裾野の広さは、

巨大な地震は、これまでの理論上考えられているほどには少なくはない、・・・★ポイント

となるからである。

また、bの値が小さければ、裾野は広くなるから、

bの値が約1と言っても、巾乗で1を越えるのか切るのかでは、巾乗としての効き方が大きく違ってくる。
ー    従って、bの値を正確に決めていくことは、予測および防災上、重要である。


最後に、自然界での造形でのフラクタル次元はいったいどれくらいなのか?


海岸線が 1.17〜1.27

墨流し(ウルトラQのopに出てくるぐちゃぐちゃ)が 1.22

河川が 1.26

コッホ曲線(雪片類似)が 1.26

スギの葉が 1.47

カリフラワーが 1.71


つまり、地震のフラクタル次元は、自然造形でのそれとしては、

高めの値であり、それは現象のかなりの複雑さを示唆している。

カリフラワーは高めの次元を示すが、

それはスギの葉やコッホ曲線が自己相似集合であるのに対し、

内部自己相似集合というより広い範疇に属しているからだ。

カリフラワーの作図過程では、複数の異なるタイプの縮小写像を用いている。

それらの縮小写像は3つのタイプから成っていて、

縮小、平行移動、回転である。
ー    奇しくも、地震で断層面に対して生じる運動は、これらの3つである。

最後に、自然現象ではないが、人為である金融資本市場でのもろもろの資産価格の変動が備えるフラクタル次元はどれくらいであろうか?

諸説あるのであるが、見積もられているその値は、

約2 なのである。

【10647】第48回・奥村「自然言語処理の基礎」
 かっくるなかしま  - 13/12/23(月) 12:38 -

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   第48回は、奥村学、「自然言語処理の基礎」。
ttp://wwを省略、
.coronasha.co.jp/np/isbn/9784339024517/
(奥村、同上、コロナ社、2010/10)
ー  バート、クライン、ローパーによる「入門 自然言語処理」(オライリー)も好著であるが、そこでは意味解析とテクニックに主眼が置かれているため、自然言語処理(NLP)の全体を俯瞰し何が起きていて何が行われているのかを把握する上で、奥村氏の同著を推奨。しかも分量がコンパクト。

本書の主題は、ポストAI(人工知能)の認知情報処理であり、自然言語(NL)はその素材である。第2世代のAIの探究と言ってもよい。
ー    例えば、Googleが何をやろうとしているのか?に関わる。

まずは、その現状であるが、同著の冒頭にあるように、(p1)

1) 今までは、機械(コンピュータ)に、自然言語(ヒトの言葉)を理解させる。

2) 今現在〜将来では、機械が自然言語を処理する。
ー    言い換えれば、機械に自然言語を模倣させる、機械がヒトの言葉を覚える、である。

あくまでこれ(↑)は、AI研究でのアプローチから眺めたもので、産業分野でこれまで行われてきたことは、以下の1' )である。

1' ) 自然言語(による指示)を手順に分解し、機械に分かる言葉に翻訳し、機械に処理させてきた。
ー    言い換えれば、ヒトが機械の言葉を覚える。

整理すると、・・・★ポイント

a ) ヒトが機械の言葉を覚える、から、機械がヒトの言葉を覚える、へと状況が変化している、

b ) ただし、そこで用いられている手法は、従来の機械にヒトの言葉を理解させる手法とは異なっている、

となる。

さて、こうした変化の背景には、Web上でのテキストデータの蓄積がある。

しかし、ヒトが使う言葉(自然言語=NL)は、ヒト同士のコミュニケーションにおいて構造化されていても、機械が処理できるようには構造化されていない。

性質の違うデータをどう取り扱うのか?/取り扱っているのか? となるわけである。

そして、新しい自然言語処理(NLP)の特徴はいったいどこにあるか?と言えば、

一言で言えば、

「知識を、利用しつつも獲得する、獲得しつつ利用する」となる。・・・★ポイント

ー   これ(↑)は、ベイズ推計で、知識を事前確率の集合とし、(予測と結果を通じて)、その知識を事後確率の集合に更新するというプロセスに対応している。

それでは、何をどうしているのか?を整理してみると、

1) 自然言語処理の4つの作業プロセス、つまり、形態素解析、構文解析、意味解析、文脈解析のそれぞれで、「語義の曖昧性」を解消するために、つまり、意味を確定させるために、知識(形態情報と意味情報)を用いる。← 今までもこれからも。

2) しかし、考えてみれば、言葉が使用される状況は千差万別であり、言葉が使用されている状況が特定できないと、1)での語義曖昧性は解消できないか、解消するのに時間がかかる。(典型的には構文木の計算量の発散) ← 従来型AIがぶつかった壁

3) 従って、1)で使用される知識に、実際にその言葉が使用されている状況についての情報を追加し、しかしそれだけでは多様な状況に対応できないので、状況を推測して状況に則した情報を追加することが、解決案となる。

4) 具体的には、蓄積が進んだテキストデータ(コーパス)に、タグ(メタ情報)を付与してゆくが、そこで確率モデルを用いる。
ー    タグ(メタ情報)を着けたコーパスから自動学習し、タグを更新してゆく。
ー    特に、計算量の発散の問題を抱える構文解析で、この方法は、「選好」(選びとる)という規則を生成し獲得することで、構文的な曖昧性の解消を図る。また、構文解析のアルゴリズムは文脈自由文法にしか対応できていないが、確率モデルで補完することは、自然言語に近いとされる文脈依存文法を非アルゴリズム的に導入することを可能にしている。
ー    同様に、形態素解析や構文解析の先に位置する意味解析では、意味情報のうち、最終的な語義曖昧性解消を担う格フレームの同定/決定が至難であったが、確率モデルはそのボトルネックを解消する。

5) かくして、品詞の正しい付与、構文木の正しい付与、語義(格フレーム)の正しい付与という解析の重要なプロセスで、曖昧性が解消される(=意味が確定される)。一連の曖昧性解消のプロセスは、並行的、協調的、動的、逐次近似的である。
ー    動的で逐次近似的であるところが、ベイズ推計での事前、事後の確率の集合の更新に対応する。
ー    こうした処理を「確率の集合の集合」、つまり確率の集合のネットワークを対象に行えば、「因果関係」の処理を模倣することになり、例えば、風が吹けば桶屋が儲かる、という一見非現実的な連想を処理の守備範囲に(いずれ)収めることになると期待される。

この最後の可能性(と現実性)は(↑)、

一見、極めて起こりにくいが、ある条件が(偶然の作用も含め)重なりクリアされると、俄(にわか)に現実性を増す、

そういった不測の事態に相当する事象への対処に繋がるものである。
ー    起きにくいが、起きたらその影響が甚大であるというのは、テールリスクの顕在化であり、例えば、超巨大地震や大暴落、或いは戦争といったものである。

ー    数回にわたり、金融資本市場や地震を取り上げたが、本稿で自然言語処理を取り上げたのは、一見無関係なようでいて無関係ではないと観るからである。

【10655】第49回・ガルブレイス「バブルの物語」
 かっくるなかしま  - 13/12/24(火) 14:10 -

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   今回、次回と、それぞれ株式市場や金融市場に対し、先人が発している警告についてご紹介したいと思います。

警告とはいっても、

資本主義やいわゆる新自由主義対する通俗的な批判の文脈で、その警告を取り上げるつもりは全くありません。
ー    自分はどちらかと言えばそれらに対して肯定的であるし、ただし、「市場」というものを観察していると、よく分かっているものとされているようでありながら、未だ十分にはその性質は捉えきれておらず、解明の途上にあるものだ、とい立場を取っています。

さて、今回は、ジョン=ケネス=ガルブレイスによる「バブルの物語〜暴落の前に天才がいる」です(↓)。
(ttp://ww)
.diamond.co.jp/book/9784478007921.htm
(ガルブレイス、同上、ダイヤモンド社、1991/05)

その内容は、金融史上での、我々人間の「愚行史」です。

敢えて、我々人間とするのは、そこでは欲が絡むが故に、我々の持つ愚かしさが集約されるからであり、同時に、市場という場においては、愚かしさは増幅されて現れるからです。

「バブルの物語」とは言っても、それは、金融資本市場に従事したり関係したりしていない多くの人達にとって無縁な話であるとは全く思っていなくて、

例えば、現在進行形の我が国の政策に(緊密に)(いずれ)関わってくる話です(↓)。
ttp://diamond.jp/article/-/32924
(アベノミクスで日本は再びバブルに踊る?〜世界的経済学者が世に問う「警告の書」、2013/03/07)

また、例えば、最近巷でもっと注目されているとすれば、こちら(↓)でしょう、「ビットコイン」です。
URL省略。
(Wiki、ビットコイン)
ttp://m.techcrunch.com/2013/12/19/20131218the-bit-coin-swan-dive-was-utterly-predictable/
(テッククランチ、「Bitcoinはバブルだ〜描いたように予想通りの展開」、2013/1218)

古典的なバブルである「チューリップ狂」に例えられています(↑)。
ー    地域通貨構想を好む人達は、この中央銀行抜きのビットコインを(アイデアとして)好む傾向があるやに思われます。
ー    自分としては、決裁手段までならいざ知らず、発行権を持つとなると全くの行き過ぎであり、そもそも金銀本位制に代わる管理通貨制での信用力の源泉は何かと言えば、軍事力・政治力・経済力なのだから、これら担保能力の裏付けを欠くものは無価値です。それを価値あるように見せかけるのは、詐欺だ、となります。
ー    中国で相当なビットコインバブルが生じ、崩壊している。← 中国では行き過ぎた実質金利マイナス政策が取られているため、資産防衛手段の一つとして選択され、ある種の実物投資とみなされたのでしょう。

ガルブレイスの「バブルの物語」では、

バブルの古典的ケースその一として、17世紀初頭オランダでの「チューリップ狂」が取り上げられています。(第三章、p47-56)
ー    チューリップは地中海東部に野生し、最初に西欧に伝わったのが16世紀半ばだそうです。
ー    そのバブル絶頂期には、一個の球根が、馬車一台、馬二頭、馬具一色と等価であったと。(今の感覚だと、かなりな高級自動車1台相当)

ガルブレイスがどういう指摘をしているかと言えば、チューリップに限らず、投機に通底するものとして、

1) 商業もしくは金融の分野で、何か一見新しいと思われるものに対して、大衆的な想像力が定着する時に、それ(投機バブル)は起こる、

2) (投機バブル)を支配する不変の法則は、投機が、投機が成功したという結果そのものによって導かれるということだ。成功が希望を正当化し、正当化が投機の持続を保証する。
ー    自己実現的なポジティブフィードバックスパイラル。

3) ブーム絶頂期には、"我れ先に投資しようとする動きがオランダ全体を呑み込んだ"、"多少なりとも感受性のある人は、自分だけが取り残されてはならないと思った"、(p50)

4) 宴の後にどうなるか、どうなったかと言えば、その後に長らくかなりの程度の不況が続く。

大きく以上の4点を指摘しています。

そして、それほどのことが起きると、当然、非難の応酬や戦犯探しの風潮が極度につのったわけですが、

"真の原因である大衆的狂気に言及することは極力回避された"、(p55)

ということです。

バブルの物語は、増幅されて現れる人間の群衆心理の愚行史であるわけですが、

それでは、よく似た性質の誤りを、我々人間が違う形で繰り返すのか、

その理由は恐らくは、我々が我々自身に内在する欠点を直視することから免れたいという願望にあるのではなかろうかと。
ー     理由は複合してもいます。現象の見かけの違いや新しさに眩惑されるところも大きいと観ます。近年のバブルにせよ、例えば、ITにせよ、証券化にせよ、新興国にせよ、「よくわからない、でも、新しい」というもので包み込まれ、それをよく知る人は専門家となり、でも、いずれにせよ通底するのは過剰与信なのだけれど、与信のプロ(伝統的な銀行業務での審査を行う人達)のノウハウは、見かけ上の異質さがハードルになって通用しにくく、また、ノウハウの伝授が滞って教訓を後に活かせない。

最後に、終章の「教訓は歴史から」で、ガルブレイスはこう指摘しています。

"市場は本質的に完全なものとされている・・しかし、投機のエピソードが市場自体に内在していることは明らかだ"、

"しかし、このような考え方は、神学的に受け入れがたいから、(市場の)外部からの影響を見つけ出す必要が生じる"、(p152、一部、文意を曲げず意訳あり)

この(↑)最後でのガルブレイスの指摘にはとても興味深いものがあると観ています。

なぜならば、以前(第42回)に取り上げた「禁断の市場」、その最終部の冒頭でマンデルブロが列挙している「禁断の金融10ヵ条」の一つに、

「いつでもどこでも市場は同じように振る舞う」、

が掲げられていて、その意味するところは、

市場での価格決定は、外部からの情報が重要な要因になっていることは間違いないけれど、

それと同じくらい、市場の「内的なメカニズム」もまた重要である。

そういうことであるからです。
ー     この内的なメカニズム、系が同じように振る舞うという性質こそが、数学や物理学での、「不変性」であり、(← これはまさに構造主義 )これまで取り上げてきたフラクタルとは、その不変性の尺度である、となります。

【10663】第50回・ヘンリー=カウフマン「カウフマ...
 かっくるなかしま  - 13/12/25(水) 21:57 -

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   今回(第50回)は、もう一つの「警告」ということで、また、第43回のBS方程式で言及した「負債主義」との直接的な関連ということで、

ヘンリー=カウフマンの「カウフマンの警告」をご紹介します(↓)。
URL省略。
(ヘンリー=カウフマン、佐藤隆三訳、同上、オータス研究所・勁草書房、1986/11)

版元がかなり地味です(↑)。但し訳者は計量経済学の権威でした。本来であれば、日経あるいは東洋経済から刊行されて然るべきだったと言えるでしょう。

少し早すぎた。でも、現場では、当時からかなりマニアックに話題になっていて、初版で入手していました。

原題は、

Interest rate, the Markets, and the New Financial World

であり、「金利、市場、そして新しい金融世界」ですが、警告と意訳したのは佐藤氏でしょうが、

四半世紀後の今から振り返ると、内容を踏まえてのその意訳は、的確であったと言えると思います。

さて、カウフマンの警告〜予言と言ってもまるで大げさではない〜の勘所/秋眉は、

第四部「金融の将来」の第16章、「1995年の信用市場」です。
ー   誰かの負債は誰かの信用と等価なので、信用市場=負債市場です。

カウフマン〜ソロモンブラザースの専務でかつ調査部門のトップでした〜が、そこで何を予測していたかと言えば、

恐るべき規模での信用市場がこれから生まれる、  ・・・★ポイント

まさにこの(↑)一点に尽きます。

その理由は大きく4点にあり、

1) インフレ率の高さから、ドルの過大評価(当時)は更に修正される、

2) 税制上、株式金融より債券金融が有利な構造にあるし、それが持続する構造にある、

3) 負債の証券化、即ち、市場性のない負債から市場性のある負債へのシフトが進む、

4) 金融機関は3)を行う潜在的なレバレッジ能力を持ち(当時)、テクノロジー(当時)はそれを阻まず、助長する。

以上により、カウフマンは、1995年の米国の負債市場は、

1985年の4.6兆ドル(約5兆ドル)、GDPの1.5倍が、

1995年には、15兆ドルになると、予想しました。

それでは、今現在(リーマンショック時点)での負債市場の規模はいかほどであったのか?

2008年9月時点でのそれは、51兆ドル(約5000兆円)で、GDP比で3.5倍でした。
ー    三井住友信託銀行の調査報告「米国資金循環の変化と金融市場への影響」(2009/01)にて確認できます。

事態は、カウフマンの予測のペースで更に13年続き(1995+13=2008)、

そこで止まった、となるわけです。

さて、カウフマンは1995年の金融世界をどうなると、定性的に予想していたのでしょうか?
ー    負債が膨らむというのは定量的な話です。また、事態は、カウフマンの想定より遥かに持続しました。

カウフマンが定性的に金融世界がどうなると見ていたのかと言えばそれは、

公的な安全網が、企業、金融機関、途上国を網羅的にカバーし、

負債は「社会化」する、  ・・・★ポイント

そして、

連邦政府は、金融機関や市場の管理にますます関わりを持つ、

そう予測していました。
ー    果たして、中央銀行の使命は、伝統的には、「物価・通貨価値の安定」でしたが、2000年前後に使命に「金融システムの安定」が追加され、そして、2010年前後に「雇用の安定」が追加されました。予測と事実とはそのように関連し合っているわけです。

【11052】番外編〜ビットコイン・バブルの物語
 かっくるなかしま  - 14/3/7(金) 10:08 -

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   第49回、ガルブレイスの「バブルの物語」にて、「ビットコイン」を現在進行形のバブルということで言及しましたが、

この数週間来の(大)騒ぎとなっているので、フォローしておきます。

ホットなところでは、

ビットコインの考案者を巡っての謎でしたが、

その人物が突き止められたという話題(↓)。
ttp://w
ww.bloomberg.co.jp/news/123-N210S66KLVRP01.html
(ブルームバーグ、「ビットコイン生みの親見つかる」、2014/03/06)

だからどうだということは、格段ありませんが、金融メディアであるブルームバーグが報じていることは、微笑ましいです。

本件のビットコインは、人間の愚行史でもあったバブルの物語の現代史に記録されることは間違いないところです。

こちら(↓)は今回の騒ぎが起きてから、ビットコインの脆弱性を突いて、ビットコインを詐取したという話です。
ttp://ww.itmedia.co.jp/news/spv/1403/06/news040.html
(ITメディア、「ビットコインの不正な引き出し相次ぐ」、2014/03/06)

そこでどうしているかが解説されていますが、原始的というか力づくというか、一言で言えば、サービス麻痺型の分散DoS攻撃といったところでしょうか。

蛇足ながら、ビットコインの利用者は全世界におよび、前回言及した中国もその典型ですが、今回の騒ぎの発端は我が国を舞台にしています。ビットコインの中枢が我が国というより、前々から言われていたように、ビットコインのネットワーク上での分散処理に向いた高性能サーバーを大量に有しているのが我が国と米国であるからでしょう。

最後に、こうした信用創造機能を持つ仮想通貨に対して、

ある種の政治的傾向を持つ一部の人達の間に、

既存の金融システムを代替する、或いは覆すといった願望や期待があり、

それは大きな間違いだ、と指摘しました。

にも拘らず、専門家であってもこうした過ちを、ビットコインに崩壊の兆しがあったにも関わらず、しでかしてしまう(@_@)
ttp://diamond.jp/category/s-noguchibitcoin
(ダイヤモンドオンライン、野口、「新連載・ビットコインを正しく理解する」、2014/02/20〜)

管理通貨制度のもとでは、

通貨の信用は、軍事力、経済力、金融力それ自体、政治力によって担保されます。

ビットコイン、或いはそれに類するいかなる仮想通貨も、それを免れません。

免れるとすれば、それはただ一つであって、管理通貨制度以前のように、

実物資産を担保とし、通貨の換物性を保証することです。
ー    かっての金本位制のドルのように、それは飛躍的な信用創造には向きませんが、ある程度の信用創造ができます。構造的にデフレ的な環境であれば、ある程度、通用するでしょう。

【11066】番外編〜STAP細胞スキャンダル疑惑
 かっくるなかしま  - 14/3/11(火) 17:40 -

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   ネットでの面白い話スレでもいいのですが、

科学的であるとはどういうことか、

また、自分自身の、科学の諸分野への横断的関心と繋がってくるところでもあるので、

こちらに記録しておきます。

第39回はランダウの「力学・場の理論」なので、

一見すると、生命科学にも、今、学会を驚愕させているといってもよいSTAP細胞スキャンダル疑惑(↓)にも、関係ありません。
ttp://w
ww.asahi.com/articles/ASG3B7F8QG3BULBJ011.html
(朝日、「新たに画像酷似の指摘、根幹揺らぐ」、2014/03/11)

一見すると関係ないのですが、

第39回でのランダウの勘所は、最小作用の原理が、

局所的な法則と大局的な法則を繋ぐ、

つまり、部分と全体とを繋ぐ、

そうした指導的指針の定式化である、ということでしたので、

生命科学は、

遺伝子/ゲノムを部分に、細胞/器官/個体を全体に見立て、

両者の繋がりを究明する学問である、と見なすことができるわけです。
ー   ゲノムシーケンスに始まり、バイオインフォマティクスに終わる。

STAP細胞の当初の発表時においては、

1) その産業化・量産化における画期性、
2) ある意味でラマルク説の復活を想起させる画期性、
3) 遺伝子型が表現型を獲得するに至る過程での、遺伝子(部分)と環境(境界条件)との役割の見直し、

以上の3点において、事実であれば凄いことだ、との印象を持ちました。

と、同時に、あまり興味を感じなかった、というのが率直な印象でもありました。
ー    一言で言えば、へぇー→ふーん。

凄さがピンとこなかったのは、その手段が比較的単純に見えたということではなく、

iPS細胞の場合、遺伝子の誘導、細胞分化というメカニズムを究明する、

実験が過程を明らかにして理論(仮説)を更新/提起/深化する、という科学的営為を感じ取れるのに対して、

STAP細胞の場合、理論(仮説)の提起に関わる箇所がすこぶる手薄であり、

だからどうしてなのだ?という好奇心を刺激しなかったところにあります。
ー     実験は、既存の理論の盲点や限界を試すために計画されるし、意外な結果は、逆に、既存の理論の弱さを指摘するというところに、実験の動機が働くと見るわけです。
ー     でも、それが希薄だと、学術的価値が伝わってこない。実験の手法に関するパテント取得というのは重要でしょうが、その意味や意義を仮説の形で提起しなければ、なぜにこたえられなければ、無価値に等しい。

本件がどういう決着を見るのか分かりませんが、

学会はおもちゃ箱をひっくり返したかのような大騒ぎです(↓)。
ttp://1000nichi.blog73.fc2.com/blog-entry-4788.html
(千日blog、「STAP細胞で最大級の捏造疑惑」)
ー   個人さんのblogですが、関係者の発言集としてまとまっているので紹介します。
ー   当該箇所の画像を見る限り、酷似というよりほとんど同一であって、間違いなくアウトでしょう。全く同一のほうがましであって、少しだけ違うということは、画像の加工/作為を意味するので最悪でしょう、学術的にではなく信用的に。

【11085】第51回・利根川進/立花隆「精神と物質」
 かっくるなかしま  - 14/3/15(土) 10:43 -

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   第51回は、利根川進/立花隆の「精神と物質」ですが(↓)、

ttp://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163444307
(「精神と物質」、利根川進/立花隆、文藝春秋、1990/07)

(手前味噌ながら)面白いです。

STAP細胞騒動顛末記については別途、記しますが、

同書に記されている利根川氏の画期的業績(免疫系における多様性の解明)において、

理論と実験がいかに関わっているのか、

今回のSTAP細胞騒動を理解する上でも、貴重な示唆に富んでいます。

利根川氏の業績の核心は、

第五章「科学に「二度目の発見」はない」、第六章「サイエンスは肉体労働である」の二章に集約されていますが、

同時にそれは、理論と実験の関わり方そのものと言えます。

非常に駆け足で、利根川氏の着想と発見の奇跡を追うと、

1) 免役系の「多様性」が(当時の)大きな謎であった。
ー    我々の生体が、あれほど多様な/膨大な抗原に対して、同等に多様な/膨大な抗体によって、防御できるのは何故か? そしてその防御機構は予め遺伝子上に備わっているのか? それとも環境適応的な別種の仕組みによるものなのか?

2) 免役機構を理解する上での仮説(理論)が二つあり、一つが多くの遺伝子が予め備わっているとする「ジャームライン説」、もう一つが関与する遺伝子のバリエーションがもっと狭いとする「ソマティック説」だった。
ー    利根川氏は分子生物学の専攻。分子生物学者は、生化学系統と遺伝学系統にスタイルが分かれていて、生化学系統は「ジャームライン説」を支持、遺伝学系統は「ソマティック説」を支持する傾向があった。
ー    面白いのは利根川氏は生化学系統だったが、免役学者(遺伝学系統)との交流が深く、「仕組みはわからないが常識外のことが起きているようだ」という現場の感覚を共有し、「ソマティック説」に導かれていった。
ー    結果的に、実験事実は「ソマティック説」を支持し、正しい仮説を採用していたことが、その後の利根川氏の研究成果に有利に働いた。

3)それでも、「ソマティック説」が正しいとしても、いったいどのような仕組みによって免役系のが多様性を確保しているのかという疑問が丸々残っていて、それを説明しようとする仮説が、「ドライヤーべネット仮説」だった。

4)ところが「ドライヤーべネット仮説」は、(説ではなく仮説というくらいだから)荒唐無稽であった。
ー    分子生物学の常識にあまりに反していた。常識は大きく二つあって、a)一つの遺伝子が一つの蛋白質の合成を担う、b)遺伝情報は発生分化の過程で変容せず、恒常性が保たれる、というもの。ところが「ドライヤーべネット仮説」は、a')蛋白質合成に複数の遺伝子が関与する、b')遺伝子は不変ではない、つまり遺伝子組み換えが起こる、というもの。

5)さしもの利根川氏も、それはあり得ないと考え、「ドライヤーべネット仮説」を否定する実験を考案し取り組んで見たところ、結果は全くの予想外で、むしろ「ドライヤーべネット仮説」を支持するものに。
ー   その実験の道のりは決して平坦なものではなく、原理的に可能な実験も、テクニカルな障害にぶつかって実験できないことが往々にしてあり、利根川氏の実験も中断を余儀なくされるるというエピソードが記されている。また、実験をする側も、コンセプチャアルな実験を得意とする研究者もあれば、テクニカルな部分で傑出した能力を示す研究者もあるetc.
ー   奇しくも利根川氏は、ここでも再び、免役系(遺伝学系統)の研究者が考案したテクニカルな実験手法のブレークスルーの力を借りて、障害をクリアすることに。

6)そして、利根川氏は、免役機構の解明という画期的な業績に到達。

以上のような流れですが、

理論(仮説)と実験がいかに密接に関わるか、また興味深いのは、研究者のバックボーンが結構、仮説の構築/採用や実験の手法/持ち味に効いてくる、というところです。

さて、件(くだん)のSTAP騒動と対比すると興味深いのが、

否定的結論を得るため行った実験が、全く意外にも肯定的結論を示唆する結果となったとき、

利根川氏はどうしたのか? です。

利根川氏は、

7)実験の結果に、そんなことはない、と思ったが、頭の片隅に、もしかしたらあるかもしれない、というのがあった。

8)同時に、他の解釈の余地はないかと、考えた。つまり、他の仮説の検討です。

9)無理な解釈にせよ、解釈の余地があるということは不十分であり面白くない。

10)だからすぐに追試に取りかかり、いろいろな角度から何度も追試を行い、追試に一工夫を加えることで、他の解釈(仮説)が成立するかを確かめ、却下していった。

11)その上で論文を作成し、実験結果は著名な分子生物学学者の集まるシンポジウムで発表し、公開質疑を行った。
ー    手持ちの時間を超過して、司会者からストップがかかったが、ワトソン(二重螺旋の発見者)が、重要であるから途中でやめるべきではないとなって、質疑応答が続いた。

こうしたプロセスを経ていました。

STAP細胞騒動では、論文の画像や本文を巡り、その真偽に関心が集中してきましたが、問題の所在は全く別のところにあると、観ることができるでしょう。

【11253】第52回・ドストエフスキー「罪と罰」
 かっくるなかしま  - 14/5/3(土) 15:39 -

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   第52回は、ドストエフスキーの「罪と罰」ですが、今回はその内容にあまり立ち入らず、従って、変則的な論評です。

ドストエフスキーは幾度か取り上げてきていて、まず、作品の大きな流れを整理しておくと、こうなります(↓)。


1 『地下室の手記』(1864) ← ドストエフスキーの転換点

2 『罪と罰』(1866)    ← 実はこれは推理小説の元祖の1つ(倒叙もの、法廷もの)

3 『白痴』(1868)     ← 主人公不在の物語

4 『悪霊』(1871)     ← 私はこれがいいと思う

5 『カラマーゾフの兄弟』(1880) ← 一連の作品の集大成/着地点


後ろから前に向けて補足すると、

5)の『カラマーゾフの兄弟』には、「大審問官」というのが出てきます。イエス(orキリスト)らしき人物も出てきます。
ー    平たく言えば、大審問官は、地上の神、人神ですが、「アンチ・キリスト」です。

4)の『悪霊』には、シガリョフという重要な人物が出てきますが、それは「大審問官」の原型です。

3)の『白痴』には、大審問官は出てきません。イエス(orキリスト)としてのムイシュキン公爵とマグダラのマリアのようなナスターシャ。

そして2)の『罪と罰』のラスコーリニコフ〜「選ばれた非凡人は、新たな世の中の成長のためなら、社会道徳を踏み外す権利を持つ」〜は、これは大審問官の「予備軍」というところです。・・・ ★

1)の『地下室の手記』は一連の物語の起点で、主人公は大審問官の原型。

ドストエフスキーは、二つの世界の狭間、つまり理性と祝祭の境界に立ち、二つの世界を描いていると観ています。

あらすじはこちら(↓)。
ttp://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%BD%AA%E3%81%A8%E7%BD%B0
(wikipedia、罪と罰)

さて、本題の『罪と罰』、その主人公であるラスコーリニコフは、大審問の予備軍ですから、ドストエフスキーのこれら作品群を通じての主人公である大審問官が、そこに造形されています。

ラスコーリニコフの性格は、上記の★箇所にある通りですが、それは更に二つに分解されて、
ー    ここは、以前に取り上げた香西『論より詭弁』に援用/依拠するところなので、ご参照願います。(ということは、議論の在り方にも関わってくるわけです)

1) (ラスコーリニコフは) 自分自身が罪を許すあるいは犯すという権利を持っている特別な人間であると自分自身で信じている。その対極にあるのが普通の人達で、作品中の被害者は普通の人達に属する。

2) (ラスコーリニコフは) 行為が悪事であるとしても、その悪事がそれ以上の善事をもたらすものであれば、悪事を犯してもよい、あるいは積極的に犯すべきであると信じている。

となります。

上記を言い換えると、1)' 選民思想、2)' 目的のためには手段を選ばぬ社会革命思想、ということになります。

1)'、2)'を併せ持つのが、大審問官です。そして、そういう性向を併せ持つ人達というのは、さしずめラスコーリニコフの現代版ということになります。

ラスコーリニコフはもはやこの世にいないのだろうか?

そんなことはありません。 ← ポイント

であるから、ドストエフスキーの作品群は不滅的な価値があると観ています。

蛇足ながら、

罪と罰での罰とはなんだろうか?

物語の外観としては犯罪が露見し裁きを受けることですが、

選民思想と社会革命思想との自己矛盾にある、となります。

【11359】Re:第52回・ドストエフスキー「罪と罰」
 あぶさん  - 14/6/17(火) 11:38 -

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   ▼かっくるなかしまさん

こんにちは。
だいぶ前の投稿ですがこれにレスをつけたのは,
30年以上前に読んだ「罪と罰」を現在読み直していることと,
「カラマーゾフの兄弟」を去年3回目の読み直しをしたからです(^^

>第52回は、ドストエフスキーの「罪と罰」ですが、今回はその内容にあまり立ち入らず、従って、変則的な論評です。
>
>ドストエフスキーは幾度か取り上げてきていて、まず、作品の大きな流れを整理しておくと、こうなります(↓)。
>
>
>1 『地下室の手記』(1864) ← ドストエフスキーの転換点
>
>2 『罪と罰』(1866)    ← 実はこれは推理小説の元祖の1つ(倒叙もの、法廷もの)
>
> 3 『白痴』(1868)     ← 主人公不在の物語
>
> 4 『悪霊』(1871)     ← 私はこれがいいと思う
>
> 5 『カラマーゾフの兄弟』(1880) ← 一連の作品の集大成/着地点

5は未完ですよね。出だしがアレクセイの伝記と書かれており,
「13年前の悲惨な事件で父のフョードル・パブロビッチ・カラマーゾフが死んだ」
とあるので,我々が読んでいるのは昔のエピソード部分のようですね。
しかし,あれでまだ未完とは長いなぁ(^^;

まぁこれも父親殺しのある種ミステリーになっているとも言えますね。
事件の種火は,長男ドミートリと父親との女性を挟んだ確執および財産分与の確執から
事件が起こり,フョードルが殺される事件でしたね。

>後ろから前に向けて補足すると、
>
>5)の『カラマーゾフの兄弟』には、「大審問官」というのが出てきます。イエス(orキリスト)らしき人物も出てきます。

次男のイワンがアレクセイに披露する話ですね。

>ー    平たく言えば、大審問官は、地上の神、人神ですが、「アンチ・キリスト」です。

キリストの再誕をないことにするんですよね。できあがった秩序を根底から崩すことになるという理由だったと記憶していますが。

>4)の『悪霊』には、シガリョフという重要な人物が出てきますが、それは「大審問官」の原型です。

この「悪霊」ですが,恥ずかしながら3回読んでもさっぱりわかりませんでした(^^;

>3)の『白痴』には、大審問官は出てきません。イエス(orキリスト)としてのムイシュキン公爵とマグダラのマリアのようなナスターシャ。

1回読みました。無垢なムイシュキン公爵が正気を取り戻した短期間のお話でしたね?

>そして2)の『罪と罰』のラスコーリニコフ〜「選ばれた非凡人は、新たな世の中の成長のためなら、社会道徳を踏み外す権利を持つ」〜は、これは大審問官の「予備軍」というところです。・・・ ★

はい,自分は世界を変えることができる人間であるが,金貸しの老婆は人に
悪しかもたらさない存在だ。自分は彼女の財を使って世の中をよくできるなら,
殺人も許される行為だと考えるのですが,
いっときの流水氏を思い出します。
(民主主義は大事だが正義を守るためにはそれを停止することも正義である)
どちらも「正義」が独りよがりなんですねぇ。

>1)の『地下室の手記』は一連の物語の起点で、主人公は大審問官の原型。
>
>ドストエフスキーは、二つの世界の狭間、つまり理性と祝祭の境界に立ち、二つの世界を描いていると観ています。
>
>あらすじはこちら(↓)。
>ttp://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%BD%AA%E3%81%A8%E7%BD%B0
>(wikipedia、罪と罰)
>
>さて、本題の『罪と罰』、その主人公であるラスコーリニコフは、大審問の予備軍ですから、ドストエフスキーのこれら作品群を通じての主人公である大審問官が、そこに造形されています。
>
>ラスコーリニコフの性格は、上記の★箇所にある通りですが、それは更に二つに分解されて、
>ー    ここは、以前に取り上げた香西『論より詭弁』に援用/依拠するところなので、ご参照願います。(ということは、議論の在り方にも関わってくるわけです)
>
>1) (ラスコーリニコフは) 自分自身が罪を許すあるいは犯すという権利を持っている特別な人間であると自分自身で信じている。その対極にあるのが普通の人達で、作品中の被害者は普通の人達に属する。
>
>2) (ラスコーリニコフは) 行為が悪事であるとしても、その悪事がそれ以上の善事をもたらすものであれば、悪事を犯してもよい、あるいは積極的に犯すべきであると信じている。
>
>となります。
>
>上記を言い換えると、1)' 選民思想、2)' 目的のためには手段を選ばぬ社会革命思想、ということになります。
>
>1)'、2)'を併せ持つのが、大審問官です。そして、そういう性向を併せ持つ人達というのは、さしずめラスコーリニコフの現代版ということになります。
>
>ラスコーリニコフはもはやこの世にいないのだろうか?
>
>そんなことはありません。 ← ポイント
>
>であるから、ドストエフスキーの作品群は不滅的な価値があると観ています。
>
>蛇足ながら、
>
>罪と罰での罰とはなんだろうか?
>
>物語の外観としては犯罪が露見し裁きを受けることですが、
>
>選民思想と社会革命思想との自己矛盾にある、となります。


とても参考になる書評です。今後の読書に活かします。ありがとうございます。
ちなみに,「悪霊」だけについて,何か書いていただければうれしいです(^^;

【11360】Re:第52回・ドストエフスキー「罪と罰」
 かっくるなかしま  - 14/6/17(火) 16:57 -

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   ▼あぶさんさん:

こんにちは。

>だいぶ前の投稿ですがこれにレスをつけたのは,
>30年以上前に読んだ「罪と罰」を現在読み直していることと,
>「カラマーゾフの兄弟」を去年3回目の読み直しをしたからです(^^

返信ありがとうございますm(__)m

読み直し中でしたか。

私は何年か前に一気にまとめ読んだきりなので、

じっくり読み込めていないかも(^^;

>>1 『地下室の手記』(1864) ← ドストエフスキーの転換点
>>2 『罪と罰』(1866)    ← 実はこれは推理小説の元祖の1つ(倒叙もの、法廷もの)
>> 3 『白痴』(1868)     ← 主人公不在の物語
>> 4 『悪霊』(1871)     ← 私はこれがいいと思う
>> 5 『カラマーゾフの兄弟』(1880) ← 一連の作品の集大成/着地点

>5は未完ですよね。出だしがアレクセイの伝記と書かれており,
>「13年前の悲惨な事件で父のフョードル・パブロビッチ・カラマーゾフが死んだ」
>とあるので,我々が読んでいるのは昔のエピソード部分のようですね。
>しかし,あれでまだ未完とは長いなぁ(^^;

なんと未完でしたか(^^; 

>まぁこれも父親殺しのある種ミステリーになっているとも言えますね。
>事件の種火は,長男ドミートリと父親との女性を挟んだ確執および財産分与の確執から
>事件が起こり,フョードルが殺される事件でしたね。

ミステリーとサスペンスの要素あり。

推理小説だと、本格派(トリック志向)→社会派(清張など)→新本格派/サイコ系・・

という大まかな流れがありますが、

ドストエフスキーは、社会派を先取りしているだけでなく、群衆や国や文明まで射程に入れていて、

伊藤計画の「ハーモニー」、高野和明の「ジェノサイド」くらいのところを、150年くらい前にやってしまっているようで凄いっす(@_@)


>>5)の『カラマーゾフの兄弟』には、「大審問官」というのが出てきます。イエス(orキリスト)らしき人物も出てきます。

>次男のイワンがアレクセイに披露する話ですね。

(^^ゞ

>キリストの再誕をないことにするんですよね。できあがった秩序を根底から崩すことになるという理由だったと記憶していますが。

(^^ゞ

>>4)の『悪霊』には、シガリョフという重要な人物が出てきますが、それは「大審問官」の原型です。

>この「悪霊」ですが,恥ずかしながら3回読んでもさっぱりわかりませんでした(^^;

ttp://ja.m.wikipedia.org/wiki/
%E6%82%AA%E9%9C%8A_(%E3%83%89%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%A8%E3%83%9
5%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC)
(wikipedia、悪霊、登場人物)

シガリョフは5人組の一人で、ピョートル(革命家)の手下ですが、大審問官。

主人公のスタヴローギンの分身がピョートル(革命家)とシャートフ(民族主義者)ですが、

その「告白」のところで、司祭と主人公が対峙しますが、

このシーンはカラマーゾフでの対決シーン(キリストvs大審問官)によく似ていますが、

主人公が空っぽでそれを見抜かれてしまう。
ー    そこには大審問官がいなくて、ただの悪人がいるわけです。

>>3)の『白痴』には、大審問官は出てきません。イエス(orキリスト)としてのムイシュキン公爵とマグダラのマリアのようなナスターシャ。
>1回読みました。無垢なムイシュキン公爵が正気を取り戻した短期間のお話でしたね?

白痴は、主人公がいなくて、悪霊とカラマーゾフに繋ぐ上での伏線のような位置付けだと、思っています。

1)〜5)の全体で一つの話だろうと。←マイ解釈

>>そして2)の『罪と罰』のラスコーリニコフ〜「選ばれた非凡人は、新たな世の中の成長のためなら、社会道徳を踏み外す権利を持つ」〜は、これは大審問官の「予備軍」というところです。

>はい,自分は世界を変えることができる人間であるが,金貸しの老婆は人に
>悪しかもたらさない存在だ。自分は彼女の財を使って世の中をよくできるなら,
>殺人も許される行為だと考えるのですが,
>いっときの流水氏を思い出します。
>(民主主義は大事だが正義を守るためにはそれを停止することも正義である)
>どちらも「正義」が独りよがりなんですねぇ。

フランス革命の風潮がロシアに押し寄せてきた時期であろうかと。
ー   理想(正義)と表裏にあった独裁(独善)。

>>ドストエフスキーは、二つの世界の狭間、つまり理性と祝祭の境界に立ち、二つの世界を描いていると観ています。

補足すると、理性(啓蒙思想)、祝祭(スラブ民族主義)の境界での調停を、神愛/正教会に見出だしているのだろう、という読解。

>>1) (ラスコーリニコフは) 自分自身が罪を許すあるいは犯すという権利を持っている特別な人間であると自分自身で信じている。その対極にあるのが普通の人達で、作品中の被害者は普通の人達に属する。
>>2) (ラスコーリニコフは) 行為が悪事であるとしても、その悪事がそれ以上の善事をもたらすものであれば、悪事を犯してもよい、あるいは積極的に犯すべきであると信じている。
>>となります。
>>上記を言い換えると、1)' 選民思想、2)' 目的のためには手段を選ばぬ社会革命思想、ということになります。
>>1)'、2)'を併せ持つのが、大審問官です。そして、そういう性向を併せ持つ人達というのは、さしずめラスコーリニコフの現代版ということになります。

>>蛇足ながら、
>>罪と罰での罰とはなんだろうか?
>>物語の外観としては犯罪が露見し裁きを受けることですが、
>>選民思想と社会革命思想との自己矛盾にある、となります。

>とても参考になる書評です。今後の読書に活かします。ありがとうございます。
>ちなみに,「悪霊」だけについて,何か書いていただければうれしいです(^^;

恐縮してしまうではないですか(^^;

悪霊は、新潮の江川訳ですが、光文社の亀山訳を読んでみようかなと。

ドストエフスキーは、

結構、推理小説的にも先を行っているし、←私の読書の原点

フランス革命思想vsスラブ民族主義という確執は、

今のロシアでは、父権を復活/体現するプーチンのロシアのように形を変えて繰り返されているし、

更には、グローバル経済と国家の関係や、西欧化とイスラム社会の関係に見られるように、

ドストエフスキーのテーマは、今のこの時代のテーマであり続けていると思っています。

ではまた(^-^)/

【11514】第53回・夢野久作「ドグラマグラ」〜自分...
 かっくるなかしま  - 14/8/19(火) 0:28 -

引用なし
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   第53回は夢野久作の「ドグラマグラ」。

これはジャンルとしては《推理小説》だと思って、昔(高校の時)、読んだのだが、

なんというか・・今で言えば東野圭吾の小説が純文学なのかミステリーなのかの境目にあるのと同じで、《ノンジャンル》の相当な先駆とも言えて、

読み返すとSFでミステリーでホラーで実験小説!?で・・推理小説だと思って最初に読んだ時はかなり面食らった覚えがあるのが、ようやく分かった。

昭和10年の作品だが、《半世紀》くらい先のことを既にやっていたと言えるでしょう。ある意味、驚き(@_@)

どういう話かと言えば、wikiをご覧に頂くか、こんな感じ(↓)です。
ttp://1000ya.isis.ne.jp/0400.html
(松岡正剛、夢野久作「ドグラマグラ」)

小説で《学説》をひねり出すというのは完全に《ハードSFの領域》です。フレッド=ホイルの「10月1日では遅すぎる」とかジェイムズ=パトリック=ホーガンの「星を継ぐもの」シリーズ、本邦でやっているのは小松左京くらいか。

推理小説的には、《叙述トリック》の範疇です。本邦では新本格派の時代に磨きがかかり、折原一や綾辻行人などの得意技。
ttp://matome.naver.jp/m/odai/2133948583701759901
(Naverまとめ、「巧みなトリックで読者をだます叙述トリックのミステリー小説まとめ」、2014/08/10)

それだけでなくて、《信頼できない語り手》という状況設定を使っていて、これはロバート=レスラーの「FBI心理分析官」(ノンフィクション)以降、《サイコサスペンス》系小説の隆盛に繋がり、ミステリーでは京極夏彦や綾辻行人もやっています。

それだけでなくて、ポーやカー、横溝正史や半村良、最近では三津田信三のような伝奇小説や怪談小説の要素が加わり、

あらゆるジャンルの《てんこ盛り》と言ってよいでしょう。

ジャンルを超えての情報の過剰感が読後の《目眩》の原因であろうと理解していますが、

ノンジャンルで、ミステリーでSFでホラーで純文学が当たり前の昨今、

プロットやネタ、描写を含めて作品が洗練されてきての昨今、今夏の一つの朗報は、早逝した伊藤計劃の「ハーモニー」が、いよいよその映画化(アニメーション)の始動となったことです(↓)。
ttp://project-itoh.com/
(プロジェクト伊藤)

無理矢理のオチをつけてみましたが(^^; 別なオチも用意しています。

夢野久作「ドグラマグラ」では、上記のように《精神科学》をテーマに据えていますが、

角川での復刊、文庫本の上下二巻の下巻で解説を担当しているのが、

《なだいなださん》なのですヽ( ̄▽ ̄)ノ

マジっす。

ドグラマグラ なだいなだ で検索を。

《マニア》の片鱗( ̄▽ ̄)b

【11528】第54回・小野田博一「論理パズル77」〜絶...
 かっくるなかしま  - 14/8/22(金) 14:46 -

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   第54回は、小野田博一の「論理パズル77」(↓)。
ttp://bookclub.kodansha.co.jp/product?code=257061
(小野田博一、同上、講談社、1995/03)

同氏のパズル本は、第20回「傑作選〜超人の論理」で取り上げましたが、その姉妹本です。

取り上げてみたのは、前回の《傑作選》と《77》とでは基本的には大きな違いがありませんが、この《77》では、

後半に《真理値表》を解説した上で、

既述の十の出題についてそれを用いて改めて解き直すことが試みられていて、

単に問題を解くだけでなく、種々の問題を整理して眺めることができるという点で、なかなか重宝だからです。 
ー   新鮮味という点では《傑作選》のほうに軍配を上げますが。(私見)

----------------------

さて、表題の副題《絶対は絶対ない?》は、他のスレとの関連ですが、

まず、織田信長(↓)です。
ttp://oda-nobunaga.info/zettai/
(織田信長の生涯、「絶対は絶対ない、はいつ使われた?」)

ということです(^^;

織田信長のトレードマークは《天下布武》なので、非武装は絶対ない派であることに絶対間違いないでしょう。

さて本題。《絶対は絶対ない》からいったい何が言えるでしょうか。

ちょいと違う表現で考えてみると、

《それが絶対ならそれは絶対でない》 ・・・★1 

これから何が言えるでしょうか。

それが絶対は命題p、それは絶対でないは命題〜pです。〜は否定。

つまり、★1は、pならばpでない。

そして、pならばpでないは、《pでない》ことと同じです。・・・★2

つまり、★1は、《絶対でない》と言っているわけです。

★2のところに少し説明が要ります。

それは、《pならばqである》という命題は、論理的には、

1) 《pでない、またはqである》と同じ、

2) 《《pであり、かつqではない》ではない》と同じ、

であるということです。・・・★3 ←真理値表で確認できます

次に、

《《絶対なら絶対でない》なら絶対でない》と言えるでしょうか。

これは奇妙なようでいて馴染みがあって、そう言える。

《背理法》です。
ー  pであると仮定してpでないという矛盾が出たら、pでないと結論するわけです。絶対と仮定して絶対でなければ絶対でないわけです。
ー  背理法は、(p→〜p)→〜p ですが、(p→〜p)は〜pのことだったので、結局〜p→〜pつまり、pでないならpでない、と言っているだけ。

最後に、

《絶対であり絶対でない》から何が言えるでしょうか。

これは、pかつpでないと考えると矛盾になって、矛盾からはなんとでも言えます。

つまり、pかつpでないならば、pであるとも言えるしpでないとも言えるので、

《絶対であり絶対でないならば、絶対でない》と言えるし、それは正しいし、

同時にまた、

《絶対であり絶対でないならば、絶対である》とも言えるし、それもまた前提が誤りならなんとでも言えるので正しいとなるわけです。

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【11534】第55回・伊藤計劃「ハーモニー」〜ハード...
 かっくるなかしま  - 14/8/23(土) 15:39 -

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   第55回は伊藤計劃の「ハーモニー」です。

若干のネタバレ(支障のない範囲です)を含みますが、バランスが取れている書評にて紹介するとこちらかな(↓)。
ttp://app.f.m-cocolog.jp/t/typecast/215451/207184/69290724
(官庁エコノミストのブログ、「伊藤計劃ハーモニーを読む」)

生命の尊重や健康の維持、非暴力と究極の福祉、共同体の《調和》を至上価値に据えた、安全で保護が行き届いて優しくて思いやりのある未来社会が設定されています。
ー   パステルカラーが重んじられています(^^)

そうした社会を構築するに至る原因が、《大災禍》と呼ばれる原因不明の戦争で、破局的な戦争を契機に上記の《ユートピア》の建設に向かい、そうしたら・・・という設定。

老人党とかの話ではないですよ(^^ゞ

伊藤計劃のこの「ハーモニー」は、著者は惜しくも早逝しましたが、所謂0年代SFの本邦ベストとしての評価を受け、米国のフィリップ・K・ディック特別賞を本邦SF作家として初受賞しており、(つまりSF業界での評価が高く) また、来年公開に向けての映画化(アニメーション)が進められているところです(↓)。
ttp://project-itoh.com/
(伊藤計画)

本邦ローカルネタかと言えばそうではなく、設定やテーマが、6月に公開された「トランセンデンス」(↓)や、邦訳が出てきたダン・ブラウンの新作「インフェルノ」と重なります。(つまり、世界同時進行ネタの一つです)
ttp://wired.jp/special/transcendence/
(ワイヤード、「トランセンデンス」)

感想は、いろいろと《刺激的》だ、という意味で面白いです。
ー   個人的には、アシモフの古典「鋼鉄都市」やハインラインの古典「夏への扉」ジェイムズ・P・ホーガンの「星を継ぐもの」、鈴木光司の「ループ」といった作品の傾向を好むので、自分のテーストからやや外れています。
ー   テーマはSFのジャンル的には、オーウェルの「1984」やブラッドベリの「華氏451」、ハクスリーの「すばらしい新世界」のような《未来社会》もので、《ディストピア》です。

フィクションとしての小説は、近年、ノンジャンル化していて、「ハーモニー」は謎解き要素を含むミステリーでもあるのですが、ミステリーとしての仕掛けは、トリックにも叙述にも依らず、淡々と真実に迫ろうとする《ハードボイルド》系であると言えます。

ただし、探偵役でもある主人公(戦士でもある)が相手にしているのは、通常の犯罪ではなくて《社会の謎》になっている。

そしてその社会の謎は、フィクションとしての《科学的学説》の上に作り上げられていて、

作品のために学説をひねり出すのは完全に《ハードSF》なので、

「ハーモニー」は、

《ハードSF系ハードボイルド探偵小説》となります(@_@)

通常のディストピアSF小説が、社会風刺を主な基調としていて、《器》のほうにはあまりこだわらない、それらとは一線を画していると言えるでしょう。

内容はてんこ盛りなので、内容に関わる一部を《続く》にしますが、

後書きの《解説》での生前の伊藤計劃氏のインタビューが面白いです。

伊藤氏の考え方というのは、(マイ読解)

多くの人が社会や共同体について、理想を描いたり語ったりするけれど、

《動物としての人間》がどういうものかはあまり語られてもいなければまだよくわかっていない、

というもの。

そこが作品の創作や作中の虚構学説構築の原点になっている。

次いで興味深いのは、

1) 物語は神の視座で語るわけにはいかないから、三人称ではなく《一人称》で語られるべきだ、

2) 最初にエモーション(感情)ではなく、(氏の場合)、最初に構成であり 次いでキャラクター、最後にやっと(氏が苦手とする)エモーションである、

といった発言でした。

冒頭の作中、破局後のユートピアを統治しているのは、生命主義を基本理念とする医療合意共同体で、《生府》(ヴァイガメント)と称されていますが、

《せいふ》の語呂合わせだけでなく、ミシェル・フーコーが晩年取り上げていた《生の権力》をモチーフにしていると観ることができます。
ー  作中でフーコーが、半行、言及されている箇所あり。
ー  フーコーは、人類社会の巨大な《福祉権力》を予見/想定し、批判を試みるという流れ。
ー  自分だと、晩年のフーコーでは《性の歴史》のほうに注目してしまう(^^;
ttp://ja.m.wikipedia.org/wiki/
%E3%83%9F%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%BC%
E3%82%B3%E3%83%BC
(wikipedia、ミシェル・フーコー)

その2に続く。

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【11536】第55回・伊藤計劃「ハーモニー」(その2...
 かっくるなかしま  - 14/8/23(土) 21:24 -

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   続きです。

内容的に《刺激的》だ、と言えるのは、読みながらインスパイア(喚起)されるからだと言ってよいでしょう。
ー   作中の表現を借りるなら、中脳の報酬系でエージェント(認知ライブラリ)が葛藤する状態となります。

平たく言えば、いろいろなことを《想像》しながら読み進める行為が生じる、となります。

確かにいろいろと《想起》させられます。

偶発的な変異の積み重ねの結果としてのゲノムということであれば、ドーキンスの「利己的な遺伝子」であるし、動物としてのヒトであればコンラート・ローレンツの「攻撃」や「ソロモンの指輪」、デズモンド・モリスの「裸のサル」や「ウーマンウィッチング」など。

前稿のフーコーの「生と権力」も同様です。

科学に限らず芸術や文芸も《巨人の肩に乗る》という点では全く似ていて、科学では《先行業績》という形を、文芸では《オマージュ》という形をしばしば取る。

故・伊藤計劃氏は、「メタルギアソリッド」(MG)のクリエーターである小島秀夫氏の薫陶を受けているとのことであり(↓)、
ttp://ww
.kjp.konami.jp/gs/hideoblog/project_itoh_mgs4.html
(コナミ、小島秀夫ブログ)

他方で残念ながら自分は《MG》をやり込んではいないので、

おそらくはオマージュの多くを見逃しているでしょうが、

「涼宮ハルヒ」や「風の谷のナウシカ」は、露骨に見て取れましたし、

同作品の根幹をなす事件《宣言》については大場つぐみの「デスノート」、オチ的な結末との関連では、浦沢直樹+手塚治虫の「PLUTO」をオマージュ、もしくはモチーフとして見て取れると観ています。

さて、自分の手元にある文庫の「ハーモニー」は、装丁が真っ白です。白の裏表表紙。

増刷では表紙はアニメ調に変わる(↓)。
ttp://project-itoh.com/
(伊藤計画、再掲)

その表紙が誰なのかと言えば、通常であれば主人公、つまり《霧慧トァン》であるが、その未来社会では人に優しいパステルカラーが尊ばれるため、それはない。であるなら、副主人公の《御冷ミァハ》しかない。

ところがその御冷ミァハの出生地であるチェチェンでは、その国旗は、緑・白・赤から成るが、《黒》はない。

ところが、チェチェンでの反政府軍は、何を用いていたかと言えばこう(↓)なのであって、
ttp://ja.m.wikipedia.org/wiki/
%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%97%97
(チェチェンの旗)

従って、増刷での表紙の人物は、主人公ではなく、(何故か)副主人公の《御冷ミァハ》のほうであると推測して間違いない、と言ってよいでしょう。

「ハーモニー」は、フィリップ・K・デイック特別賞受賞に見られるように《わたしがわたしでない世界》のディストピアですが、

主人公のみならず、上記に見て取れるように、副主人公の造形とそのディテールは、まさに《わたしがわたしでありたい世界》でもある。

つまりは、脳も葛藤、作品の世界観も《葛藤》しているとなるわけです。

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ps

本作品はフィクションであり、当然、現実の世界が実際にはどうであるかはまた全くの別物です。

奇しくも本作品や本稿とは独立、無関係に、都民さんと有益なやり取りを重ねることができたので、謝意とともにその一部を再掲しておきます。
ttp://6410.saloon.jp/modules/bluesbb/thread.php?thr=1890&sty=2&num=20

ありがとうございました。> 都民さん

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【11540】第56回・内山x南野「憲法主義」〜目から...
 かっくるなかしま  - 14/8/25(月) 15:55 -

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   第56回は、内山奈月x南野森の「憲法主義」ですが、

本家のほうに書いています。
ttp://6410.saloon.jp/modules/bluesbb/thread.php?thr=1894&sty=2&num=29
(【25400】、同上)

面白かったです。

番外編の感想というかネタとしては、

なっきーが慶應の法学部ではなくて経済学部というところが笑えて、(自分のツボ的に)

南野《准》教授が教授になったのがこの8月で、なっきー様様じゃないかと肴にしています。

版元は増刷がかかって会社の利益的にはラッキーのようですが、

マジに編集担当の上司は無気力、脱力らしく、

売る気がないのに売れているという珍現象っぽい(@_@)

人事異動前の編集さんの最後の仕事がそれらしく、

無気力上司が貶しながら左団扇と聞き及び、

思わず、単行本で増刷していないで文庫にして他部門に利益を付け替えたら?と、

余計なお世話を焼いてしまいました。

【11777】第57回・高野史緒「カラマーゾフの妹」〜...
 かっくるなかしま  - 15/1/31(土) 16:55 -

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   第57回は、高野史緒の「カラマーゾフの妹」です。

3年前の乱歩賞受賞作(↓)。
ttp://ww.
kodansha.co.jp/about/nextgeneration/archive/22745
ttp://i.bookmeter.com/b/4062178508
(講談社、江戸川乱歩賞)
(読書メーター)

▼あぶさんさん:

こんにちは。

> だいぶ前の投稿ですがこれにレスをつけたのは、30年以上前に読んだ「罪と罰」を現在読み直していることと、
> 「カラマーゾフの兄弟」を去年3回目の読み直しをしたからです(^^

ということで、超お奨めです(^-^)b

>>1 『地下室の手記』(1864) ← ドストエフスキーの転換点
>>2 『罪と罰』(1866)    ← 実はこれは推理小説の元祖の1つ(倒叙もの、法廷もの)
>>3 『白痴』(1868)     ← 主人公不在の物語
>>4 『悪霊』(1871)     ← 私はこれがいいと思う
>>5 『カラマーゾフの兄弟』(1880) ← 一連の作品の集大成/着地点

> 5は未完ですよね。
> 出だしがアレクセイの伝記と書かれており、「13年前の悲惨な事件で父のフョードル・パブロビッチ・カラマーゾフが死んだ」とあるので、我々が読んでいるのは昔のエピソード部分のようですね。しかし、あれでまだ未完とは長いなぁ(^^;

その未完のカラマーゾフの兄弟の《続編》になっています。

それと、前編(=カラマーゾフの兄弟)でのフョードル事件が、《未解決事件》になっていて、その真相究明が行われます。

探偵役は次男のイワンと新しいキャラクタ(ロシア貴族で犯罪心理学者)。

フョードル事件が1874年、ドストエフスキーによる続編の年代設定が13年後の1887年ですが、

1887年にはコナン・ドイルの「緋色の研究」が発表されていて、

シャーロック・ホウムズが小説内実在人物として取り扱われ、

探偵役のイワン達は、その初期の科学捜査技術を導入して事件の再捜査を行います。
ー    イワンはロシア内務省のモスクワ支局未解決事件課の特別捜査官っす。

続編の冒頭、2ページ目で、いきなり《読者への挑戦状》が出ます(^^ゞ
ー    続編を書く理由は、前任者(ドストエフスキー)の小説の中に《重大な事実》があり、ドストエフスキーは、動機や手がかりの全てを書き込んでいて、四男のスメルジャコフを実行犯とするのは疑わしい、と。

巻末で、作者(高野氏)とロシア文学者の亀山郁夫氏、沼野充義氏とが対談を行っていて、

亀山氏は、作品を自分のものだと思っていた翻訳者として作品を全部持っていかれるようなショックと恐怖を感じたと語っています。

「罪と罰」(1866)は、ミステリーでは《倒叙もの》、《法廷もの》の第一号ですが、
ー  注記1。ポーの「モルグ街」(1841)が、ミステリーの第一号。
ー  注記2。倒叙もので知られているのが刑事コロンボシリーズ、法廷ものではペリーメイスンシリーズ。

集大成的な「カラマーゾフの兄弟」でドストエフスキーが再びミステリーに挑んでいて、今度は《本格派》であるとすると、

前編のフョードル事件は、俄然、未解決事件の様相を呈します。

前編はミステリーなのだ、というのが作者の視点で、

ドストエフスキーはそれだけを描こうとしたわけではないけれど、
ー    人間と社会を描く純文学であり、ロシアを描く歴史時代小説であり、世相やゴシップをを描く大衆小説であり、社会背景を描く思想小説でもある。

様々な要素のうち、ミステリーの要素が相対的に過小評価されてきたので、

前編の読解や解釈に、《大きな盲点》が生じているとなります。
ー    亀山郁夫氏のショックもそこにある。
ー    純文学の場合、登場人物への感情移入が入りますが、ミステリーはその逆で登場人物を疑う。真犯人が違う、真犯人は誰か? となってくると、純文学的読解では、大どんでん返しをくらいます。

・・・

>> 5)の『カラマーゾフの兄弟』には、「大審問官」というのが出てきます。
> イエス(orキリスト)らしき人物も出てきます。次男のイワンがアレクセイに披露する話ですね。
>> 平たく言えば、大審問官は、地上の神、人神ですが、「アンチ・キリスト」です。
> キリストの再誕をないことにするんですよね。できあがった秩序を根底から崩すことになるという理由だったと記憶していますが。

前編で《大審問官》を演じるのが、次男のイワンでした。法廷で錯乱し、長男ドミトリーを結果的に追い詰めたのもイワンでした。

また、おそらくはドストエフスキーは、神でなければ裁けない時代から、人が人を裁く時代(近代の立憲主義、政教分離)への変遷と、その中で、人民の名のもとで、人をも裁けば神をも裁く、急進主義の逸脱or狂気性を大審問官に仮託したもの推測しますが、

その近現代性の闇を抱えた次男イワンが、続編での探偵役を務めます。

どうなるか?

・・・

表題副題の、現代に甦るドストエフスキーワールドですが、

1)  続編として、前編の雰囲気をよく醸し出していて、驚くほどに再現できていて、甦ります、

2)  前編でのフョードル事件で張られている伏線が《叙述トリック》として回収され、現代的なミステリーとして前編が甦ります、

3)  ドストエフスキーがその観察力を通じて表現した世界に、現代の心理学の知見を照らし合わせることで、その世界が客観性を伴って甦ります、

4)  大審問官をいかに克服するかという課題(推測)が、真相究明と事件の解決を通じて、甦ります。

・・・

ということで、超お薦めです。

蛇足ながら、

おそらくは、作者の踏襲したような伏線をドストエフスキー自身が張っていた、と思われます。

その事件の真相があって、本来の後編のテーマと後編の主人公の再設定が、動機付されるという構成であった、と推測します。

ただし、事件の真相究明と並行して進んだであろう後編での大きな事件は、

作者(高野氏)が描いたものとは異なっていて、
ー    ドストエフスキーであったら大衆的ドタバタの大騒ぎが必要で、キメでは大審問官だろうと思っているので(^^ゞ

それをするには、当時のロシアでの複雑な政治情勢に立ち入ることになるでしょうし、
ー    当時のロシア情勢に合わせるように、リアリティを持たせて話を膨らませることですが、これは時代制約があって容易ではない。

相応の資料収集を要するし、時間を要するし、

紙数は2倍を超えるでしょう。

しかしそれだと乱歩賞の募集要項(紙数制約)から外れてしまうので、(笑

真相究明を軸にして、大事件のほうは今風のSF感覚(スチームパンクSF)による飛躍で手際よく処理するという作者の手法と手腕は、完璧だろうと思っています。

では。

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【11985】第58回・呉善花「漢字廃止で韓国に何が起...
 かっくるなかしま  - 15/5/21(木) 21:28 -

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   今回は、呉善花さんの「漢字廃止で・・」です。

呉善花さんは、なかなかの美脚な方っす(^^ゞ

もとい、

たまたま韓国では、現在進行形で廃止された漢字の復活が教育の現場で起こりつつあります(↓)。
ttp://s.japanese.joins.com/article/294/200294.html
(【中央時評】深刻な問題、韓国の教科書の漢字併記

流れ的にはこうです(↓)。
>> 昨年9月、教育部は2015改定教育過程の主要事項を発表する中で小学校の教科書に漢字を併記する案を提示し、今年9月の教育過程告示を前にして漢字教育に対する年を重ねた古い論争が再演している。漢字併記を賛成する側では、教科書の用語の大部分が漢字語なのでその意味を正確に伝えるために漢字が必要だと主張する。漢字併記を反対する立場としては、用語の意は字ではなく状況と脈絡を通じて体得されるので漢字で表記して意味を把握できるのではないとみている。しかも漢字を併記すれば文章の可読性が落ち、45年間守ってきたハングル専用教育の伝統を崩すだけでなく漢字の私教育を助長する可能性があると憂慮する。

ハングル表記の韓国語は、というか、表記法としてのハングルは、多様な母音、子音を表現しうる優れた《発音記号》ですが、

そしてまた、そうした表記法が発明された背景には、漢字(漢語)が本家の中国で王朝交替すると、同一の漢字表記でも音がかなり変わるという現象があったからだろうと観ますが、

全く別の観点で、

ハングルを読む時〜人ではなくて機械がそれを読む時〜どう処理するのだろう?という疑問がありました。

というのも、機械がテキストを解読する時、

形態素解析→構文解析→意味解析→文脈解析を、・・・★

逐次的に処理し、或いは部分で並行的に処理し、またそれら処理を連携・協調させて、

最終的に、機械がテキストから意味を抽出し、分類/クラスタリングするわけですが、

対象とする言語の表記がハングルのように表音表記であると、

解読のハードルがとても高くなります。

解読の作業は、上記の★の各解析の過程で、

品詞→文法→語義→文意という手順で、逐次的かつ並列的に《曖昧性》を排除していくことですが、

表音表記では、品詞と語義の曖昧性解消が難しいからです。
ー   よく聞くのは、韓国語では、人でも同音異義語の理解が難しく、これは語義の確定の難しさに相当します。(意味表現でのシソーラス辞書の弱さという言い方をします。)

ということで、

表題の「漢字廃止で・・・」をご紹介します(↓)。
ttp://w
ww.php.co.jp/books/detail.php?isbn=978-4-569-69518-1
(呉善花、「漢字廃止」で韓国に何が起きたか、2008/09、PHP)

概要です(↓)。
>> 韓国語は漢字を廃止したために、日常的にはあまり使われない、しかし概念や理念を表す言葉、各種の専門用語など、伝統的に漢語で表されてきた重要な言葉の多くが、一般には次第に使われなくなっていった。
>> 各種の評論・研究論文や新聞・雑誌の記事に、総じて書き言葉の世界に、語彙の恐ろしいまでの貧困化がもたらされたのである。とくに文学の面では、散文でも詩文でも、伝統的にあった豊かな漢字表現の大部分を失ってしまった。

また、重要箇所を抜粋すると、

>> 韓国語の語彙は、日本語以上に漢字語の影響が強く、一般の文書で使われている語彙の約70%が漢字語で、公文書になると90%以上が漢字語だといわれる。私(著者)は、韓国人が漢字の廃止によって失ったもののなかでも、最大のものは、「概念を用いて抽象度の高い思考を展開すること」だと思ってきた。

多く言語では、記法が表意文字であれ表音文字であれ、単語の形が《語源》を反映しているので、単語という記号は概念と分かち難く結びついている。
ー    ソシュール言語学での記号表現(シニフィアン)と記号内容(シニフィエ)です(↓)。
ttp://ja.m.wikipedia.org/wiki/
%E3%82%B7%E3%83%8B%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%81%A8%
E3%82%B7%E3%83%8B%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%A8
(Wiki、シニフィアンとシニフィエ)

我々の脳は、記号表現に含まれる形(視覚情報)と音素(聴覚情報)を手がかりに、記憶のライブラリーの概念を連想/想起しながら、読解/認知処理を行いますが、ハングル表記でもそれは同じですが、表音表記であるため、視覚情報を欠きながら音素に頼るという処理になる。

表音表記というのは会話表現ですから、意思伝達に支障は全く生じませんが、意思伝達の表現形態が限りなく、会話の範囲に狭められてゆく。ツイッターに見られる表現形態です。即時的で浅めでストレートな表現。

>> 漢字排斥がもたらした最大の弊害が、韓国語では日本語と同じように概念語や専門用語の大部分が漢字語であるのに、漢字の知識によってそれらの言葉を駆使することができなくなったところにある。そのため韓国人は、抽象度の高い思考を苦手とするようになってしまったというのが私の考えである。・・・新聞や雑誌や書物の中に、意味不明の言葉がたくさん出てくることになる。ハングル専用世代はしかたなくそこを読み飛ばす。そのため、実にいい加減な読み方しかできていないのが実状である。

ここはかなり重要なことを示唆していて、抽象思考ができるかどうかはさて置き、

1968年からハングル表記の切り替えが順次進んでいったことから、1980年代の後半には漢字表現がかなりなくなり、韓国の今の20代以下では漢字が読めず、40代でも漢字が怪しく、

つまり、彼らは、1980年代以前の彼らの記録、記事、文献、書籍等へのアクセスが容易でない、ということです。

他方で、1990年代後半以降は、インターネットの普及で膨大なトランザクションが会話テキストの形で生じ、累積しているけれど、それらはハングル表記です。

とても逆説的ですが、

「歴史認識」と言った場合、彼らは、1980年代以前の彼ら自身による記録には容易には遡れず、2000年代以降に累積したハングル表記での知的ストックを思考や理解の手がかりにせざるを得ない。
ー    歴史を遡って文献的に検証できない。検証のハードルが高いので他人任せになりやすい。

反日教育とは言っても、中国のように情報統制が敷かれているわけでもなく、検証する術はあるはずなのだけれど、

奇しくも、漢字廃止により、過去の記録へのアクセスが絶たれている形で、情報鎖国的な状況、過去との断絶的な状況に陥ってしまった、

そうした見方が成り立ち得るのではないかと観ています。

・・・

冒頭での機械による自然言語処理(NLP)に立ち返ると、

今のNLPの最先端/エッジでは、膨大なテキストデータを非ノイマン型の分散処理(NFS)で力づくで計算機に統計的言語処理を行わせることで、機械にテキストの意味を理解させます。

言い換えれば、この方法(統計的言語処理)では、言語が音素による表音表現であっても、理解のハードルをクリアできますが、

これは、喩えると、あらゆる場面での言葉の用法を頭に叩き込むようなものです。

NLPでの処理のハードルの高さを対照させてみると、

呉善花さんの「漢字廃止で・・・」がストンと腑に落ちてきた、というのが自分の感想です。

----------------

追記しておきます。

河野談話は1993年、村山談話は1995年でした。
ー     それらは、韓国語が漢字をほとんど失った時期、インターネット時代の黎明期の狭間に位置します。


----------------

【11988】第59回・エッカート「帝国の申し子〜韓国...
 かっくるなかしま  - 15/5/23(土) 19:50 -

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   今回は、カーター・J・エッカートの「日本帝国の申し子〜高敞の金一族と韓国資本主義の植民地起源 1876-1945」です。

10年前の邦訳発刊当時の朝日の書評。
ttp://book.asahi.com/reviews/reviewer/2011072700458.html
(朝日書評、「日本帝国の申し子」、カーター・J・エッカート、2004/03/21、評者/青木昌彦/米スタンフォード大学名誉教授)
ー   概要は、amazonでの紹介のほうが的確ですが、URLが長いため、朝日書評でまずは代用とします。追って後述。

・・・

今回、取り上げた理由ですが、前回の韓国ネタ繋がりであるとともに、時事(↓)との関連があります。
ttp://w
ww.sankei.com/smp/premium/news/150515/prm1505150009-s.html
(産経、「強制徴用の記念碑造ったら?」世界遺産議長国ドイツ“仲裁案”の不安…また反発・韓国の猛攻、絶対に負けられぬ日本の「外交戦」、2015/05/21)
>> 世界遺産登録の目前まで漕ぎ着けた「明治日本の産業革命遺産」。近代化の原動力となった製鉄所や造船所、炭坑などが世界史的に評価された証だが、これに韓国が猛反発している。

安倍首相の米国議会演説以降、外交を安全保障とそれ以外とに分離する《ツートラック》を韓国は志向するやに観られていましたが、十分な発想の切り替えには至らず、ゼロ歩前進二歩後退の趣き。

慰安婦問題での糾弾が制御を失い、米国や自らのベトナム戦争でのそれに越境してブーメランを生じたことは記憶に新しいが、

産業遺産での世界遺産登録を政治と絡めて行き過ぎれば、同様のブーメランを招くのは必定。

世界遺産議長国のドイツは、摩訶不思議な妥協案を提示してきてるようですが、ドイツの世界初の産業遺産である《フェルクリンゲン製鉄所》それ自体、産業史的側面を切り捨てて政治的側面を取り出して強調すれば、かくなる部分(↓)は否めないわけであるから。

URL省略。
(Wiki、フェルクリンゲン製鉄所)
>> 第二次世界大戦中には約7万人の強制労働者や戦争捕虜が鉄鉱石採掘、製鉄あるいはザール地域の工場で労働に従事した。比較的軽い労働には女性も就労させられ、それまでは立ち入りが禁止されていた生産現場でも働かされた。
>> 戦争末期には14,000人の、ロシア、ポーランド、ユーゴスラヴィア、フランス、ベルギー、ルクセンブルクなどから連行された男女が極めて過酷な条件下での労働を強いられていた。

・・・

さて、表題の「帝国の申し子〜韓国資本主義の植民地的起源」。

長いamazonのURLを省略し、

著者による探究課題の設定/問題提起はこちら(↓)。
>> 「漢江の奇跡」――韓国が解放後30年間に果した驚異的な経済成長を、世界の学者たちはこう表現した。この奇跡をもたらしたものは何であったか? 本書は、1970年代に「驚嘆する劇的な変化」を目の当りにしたアメリカ人研究者が「その現象の歴史的背景」を、一切の予断と偏見を排して解明した「韓国社会経済史」である。

著者の探究と対比される《通説》がこちら(↓)。
>> 韓国の一般的学説は資本主義の「萌芽」を李朝時代に求める。17世紀に芽生えた朝鮮の資本主義は、十分に成長する前に外国の圧力にさらされ、そのため日本の経済進出に耐えきれず、1910年の日韓併合による植民地化によって、1945年まで大きく抑制されていた、というのが、朝鮮半島の南北を問わず、堅固に定着した学説である。この説は「戦後史観」に立つ日本の歴史学者にも堅く信じられている。

理論は、実証研究、つまり、データ収集と観察から《帰納》されますが、

学術研究がそうした実証→理論というプロセスを辿らず、

史観(イデオロギー)→支援材料の収集、という逆のプロセスが取られる。
ー    偏向バイアスをかけて、フィルターをかけるというよくある現象。

>> しかし、本書は「彼らの研究においては、論理より日本の行為を弾劾することで得られる感情的満足のほうが重要視されているようだ」と直言してはばからない。

実証研究を普通にしてみればこうだろう、というのが本書の価値です。
ー   因みに自分が、説得の手法として、合理的納得に働きかけるか、感情的満足に働きかけるか、という場合の、《合理的納得》、《感情的満足》というキーワードの切り出しは、本書に依るところが大きい。
ー   通説が感情的満足、同書は合理的納得をそれぞれ追究していると、対照できます。

>> いわゆる「萌芽派」の歴史家たちが用いている証拠はむしろ、彼らが無視する「空白期」、すなわち1867年の「江華条約(日朝修好条約)」による開国から1945年の解放にいたる期間こそ、社会経済史家が本格的に論じるべき時代であることを教えていた。

記録をバイアスのもとで解釈する(意味をこじつける)のではなく、証拠をありのままに観る。平たく言えば、態度/姿勢となります。

>> そこで、著者が研究の焦点を向けたのは、韓国資本主義の象徴的存在である「京城紡織株式会社=京紡」とその創業一族「高敞の金一族」の歴史である。それは、「京紡は朝鮮史上初の朝鮮資本(かつ朝鮮人経営)による大規模な企業」であり、そこに「人間的なレベルでの韓国資本主義の起源と初期の発展を探ることができる」と考えたからに他ならない。

著書の表題で、なぜ、京紡の金一族に焦点を合わせたか。朝鮮の国民資本に当時の植民地下での朝鮮資本主義の発展の現実を顕著に認めることができるからだ、という論理に依ります。

考えさせられることが多かった同書でしたが、そのエッセンスは紹介のこの箇所に集約されています(↓)。
>> そして著者は、同社に残された豊富な記録文書を精査し、日本が「圧政者であると同時に社会経済の変化の推進者」だったことを立証していくのである。

我が国の朝鮮統治を美化/正当化する意図は自分にはありませんが、

歴史における《光と影》、その両側面に目を向けるということの意義、となる。
ー    負の側面だけに目を向けても、負の遺産は負のままで、現在・未来に繋がっていかないから。

我が国の産業遺産の世界遺産登録に韓国が異を唱えることは可能です。

ただし、彼らが北朝鮮での産業遺産を含め、自らの産業遺産を世界遺産登録するという発想に立った時、

必ずや自らの産業史、資本主義の発展史を直視することになり、

そこには日本帝国の片鱗を見出すことになります。

それを《亡霊》と見るか、《未来への遺産》と見るかは、彼ら次第。

ただし、残念ながら、自らの過去と言語的に断絶しつつある彼らの状況をもってすると、

亡霊は消去の対象であり続けるのでしょう。


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次回は、お題を変えて、ウィトゲンシュタインの《言語ゲーム》、その前段としての「論理哲学論考」。

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【11991】第60回・ウィトゲンシュタイン「論理哲学...
 かっくるなかしま  - 15/5/25(月) 10:33 -

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   今回は、ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」です。(所謂、「論考」)

同じく、ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」の前振りとして取り上げるつもりでしたが、

これはこれで面白いので、2回に分けることにしました。

今回のその1では、インスパイアされるところ、次回のその2では少し内部に立ち入っての感想となります。

・・・

そもそも、後期ウィトゲンシュタインの《言語ゲーム》を取り上げようとしている理由ですが、

言語ゲーム:規則(ルール)に従った人々の振る舞い

つまり、

お題の一つともなった社会保障を含む《制度》というものを考えた時、

いかなる制度も、今では《法》で規定され、

更には法の法である《憲法》で規定されるけれど、← 憲法は《メタ法》

言語ゲームが示唆するのは、

法に先立って、規則に従う人々の振る舞いがある、ということであり、

更にそれが含意するものは、

a) 始めに《掟》ありき。人々が振る舞いと従っている規則/ルール/掟は、《法》のように明示的とは限らない。

b) その先立つ掟と、それを明文化した法とが整合するから、法に従うことを意識せずとも、自ずと法に従うという現象が生じる。

c) 逆に、掟と法が乖離すると、法がワークしない。

d) また、人々の振る舞いの総体(掟)とかけ離れた法を移植しようとしても、受容されないetc.
ー   例えば、イスラム圏にいきなり議会制民主主義を持ってきても、人が法を作るという慣習に馴染みがないから、立ち枯れるetc.

つまり、言語ゲームを取り上げるのは、

人々の振る舞いそのものに注目することに意味がある、と考えるからです。

また、今なぜそうなのか?と言えば、

一つには、《振る舞いの科学》が進捗していて、典型的には、ロボットや計算機が人々の振る舞いを模倣するという事例が工学的なエッジとして注目されているから。
ー     無人自動車走行もその一つ。軍事におけるドローン等も。

そして時事との関連で、安全保障法制や憲法論争。

別稿にて、改めて英国法学者のハーバート・ハートの論に言及しますが、ウィトゲンシュタインを後継しているハートの論においては、

言語ゲームの《一次ゲーム》が、人々の振る舞いに相当し、そこには行動原則としての掟があり、

法治は、その振る舞いに言及する形での《二次ゲーム》に相当し、そこではルールの明確化を通じて、ルールの円滑な運用、変更、承認、裁定等が行われる。
ー   二次ゲームもまた人々の振る舞い。変更・承認は議会、裁定と裁定の裁定が司法。

安全保障法制は変更・承認の二次ゲーム、改憲論争は二次ゲームについてのゲームなので《三次ゲーム》に相当しますが、

私見では、肝心の《一次ゲーム》、つまり、人々の振る舞いという論点が疎かにされていると観ます。

自衛というのは、一次ゲームでの自然発生的な掟の範疇にあり、抑止・均衡もまた、それが崩れた場合の人々の振る舞いという点で、一次ゲームの範疇にあり、我が国の周辺国の振る舞いもまた、安全保障法制の起点をなしますが、そうしたことが、遠景に押しやられる。← 高次ゲームで捨象される傾向が生じる。二次ゲームである法を起点とするから。

・・・

やっと、ウィトゲンシュタインの「論考」ですが(笑

そこで言っていることは、

現実に起きていることをありのままに見よ、

です。

その上で、

現実と思考との間には対応関係がある、

現実とかけ離れたことを考えても意味がないだろう、

哲学(=思考についての思考)の役割は、思考すべき領域とそうでない、領域とを区別することだ、

考えられないことを考えても仕方がないから、そこは黙るしかない、

等、となります。

ウィトゲンシュタインの「論考」は、後年の「探究」で彼はそれを撤回しているとの評価が定説のようですが、

自分の理解は全く違っていて、

「論考」での7つの論述のうち、

最後のほうの§6、§7と§5の半分は却下されているけれど、
ー    1930年のゲーデルの不完全性定理に依ります。

§1以降§5半ばまでは、イキの状態になっていて、

であるが故に後期の「探究」とそこでの言語ゲームに接続する。

更に、§3と§4で展開される《世界モデル》は、

自然システムの《意味論》と数理形式システムの《統語論》を相互に写像させるというアイデアは、

上記での《振る舞いの科学》のエッジの原型を提供している。

そして更に、振る舞いの科学での重要な分析の対象の一つが奇しくも我々の言語そのものになっている。

驚くべき先見性をウィトゲンシュタインは直観的洞察で提示していた、となります。


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【11994】第61回・ウィトゲンシュタイン「論理哲学...
 かっくるなかしま  - 15/5/25(月) 16:58 -

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   続きでその2です。

その1での感想を再掲しておくとこれ(↓)に尽きます。

---- 再掲始め ----

◆ ウィトゲンシュタインの「論考」は、後年の「探究」で彼はそれを撤回しているとの評価が定説のようですが、自分の理解は全く違っていて、「論考」での7つの論述のうち、最後のほうの§6、§7と§5の半分は却下されているけれど、(1930年のゲーデルの不完全性定理に依ります) §1以降§5半ばまでは、イキの状態になっていて、であるが故に後期の「探究」とそこでの言語ゲームに接続する。

◆ 更に、§3と§4で展開される《世界モデル》は、自然システムの《意味論》と数理形式システムの《統語論》を相互に写像させるというアイデアは、上記での《振る舞いの科学》のエッジの原型を提供している。

◆ そして更に、振る舞いの科学での重要な分析の対象の一つが奇しくも我々の言語そのものになっている。

◆ 驚くべき先見性をウィトゲンシュタインは直観的洞察で提示していた、となります。

---- 再掲終り ----

今回のその2では、インスパイアされる箇所の補足と、「論考」の細部に若干立ち入りますが、

何でもそうだと思いますが、何かを見聞する時、初見では他の何かを理解の手段として用いるしかなくて、

自分の場合は、今時の自然言語処理(NLP)の知見や今風の「世界モデル」を手がかりに読解するということになりました。

堅苦しいっすが、「世界モデル」はこんなもの(↓)。

           コード(翻訳)           
            →
    自然システム       形式システム/算術システム
    (現実世界)       (概念世界)
            ←
           デコード(解釈)
       ↑            ↑
   《意味論》の世界      《統語論》の世界


注記: 意味論は、事物と事物の関係です。統語論は、概念から概念を生成する規則(文法)ですが、自然システムでの意味は、形式システムでは文法に翻訳され抽象されてしまう。

注記: コード、デコードは、対象(事物と概念)を繋ぐことなので、そこでは《対象》に対して《解釈者》が現れてくる。対象と解釈者の関係が、《語用論》ですが、その解釈者は、自然システム、形式システムのそれぞれの《内部》に在るものとなります。
ー    解釈者とは、自然システムでは《意識》或いは《自意識》です。形式システムでは、ゲーデルが考案した自己検査能力を備えた強力な算術システムです。

・・・

「論考」を凄いと思ったのは、7つのパラグラフから成る本書のほとんど冒頭で、今風の「世界モデル」の原型を提示していることです。

以下、本書の内容に立ち入ると、7つのパラグラフは7つの命題に対応しています。

命題1 世界は成立している事柄の総体である

命題2 成立している事柄、すなわち事実とは、諸事態の成立である

命題3 事実の論理像が思考である

命題4 思考とは有意味な命題である

命題5 命題は要素命題の真理函数である

命題6 真理函数の一般形式はこうである  --- 〔p*、ξ*、N(ξ*)〕

命題7 語り得ぬものについては、沈黙せねばならない

各命題に対応するパラグラフの分量はかなり偏っていて、

命題1  1ページ  ← 今風に言うと関係性の《事的世界観》です

命題2  8ページ  ← 思考による像は、現実の《モデル》だという指摘

命題3  16ページ ← 思考の表現が命題であり、命題の構造と世界の構造が対応する、と。

命題4  34ページ ← 命題の総体が言語。現実が内在する論理に従って現実は記述される。

命題5  45ページ ← 語られるものとはどういうものか。真理函数の形を取る、と。

命題6  32ページ ← 真理函数を一般化すると、こういう形を取る、と。

命題7  1行    ← 超有名ですが(笑

・・・

全体を振り返ると、

a)   自然システムに関する議論と形式システムに関する議論とが当時は混同されていて、哲学は混乱しているとウィトゲンシュタインは観ていて、それを整理するというのが動機として在ったと考えられます。

b)   その手段として、命題1〜命題4で、今風の「世界モデル」の原型を提示する。これにより、意味論の世界と統語論の世界に区別され、議論の混同が無くなるとともに、哲学(とは言っても論理実証主義的なそれ)を、統語論の世界/概念世界/形式システムで実行することができる、となります。

c)   一度、統語論の世界に移ってしまうと、そこで取り扱うべき命題、論理形式はどういうものか?となって、それが命題5の§5の後半部から§6にかけて示された真理函数だ、となっていて、それが哲学での《語られるべきもの》、となっている。

d)   語れぬものには沈黙せざるを得ないという〆の有名な言葉は、形式システムに翻訳できない言葉は、それは現実にはないものだから議論できないだろう、となります。

e)   その後のゲーデルの不完全性定理により、語れるもの、語れぬものだけでなく、自然システム(現実世界)にも概念世界(形式システム)にも、語れるか語れないか確かめられないものが出てきたことで、「論考」での§5の後半部から§7については、過去のものとなりましたが、ウィトゲンシュタインの世界モデルは丸ごとイキ、となっています。
ー    典型的に、チューリングマシンの停止問題とゲーデルの不完全性定理が、現実世界と概念世界の対応をなす通り。

・・・

その2は以上ですが、

部分でとてもインスパイアされる箇所を幾つか列挙しておくと、

§3-2
>> 思考は命題で表現される。
§3-221
>> 命題は、ただものがいかにあるかを語りうるものであり、それが何であるかを語ることができない。
ー   命題とは、関係を概念で表現するものだ。ただ関係を示すが、その関係の原因が何であるかは示せない。
ー   遺伝子の起源が何であるかを、今の我々が原理的に説明し得ないのと似た話です。

§3-13
>> 命題に含まれるのは意味の形式であり、内容ではない。
§3-317
>> 命題函数の値を確定することはただシンボルの確定のみに関わり、その意味には関わらない。
ー   形式システムに移行すると意味は消え、統語論的に処理される。

§4-002
>> 日常言語から言語の論理を直接に読み取ることは人間には不可能である。
>> 日常言語を理解するための暗黙の取り決めは途方もなく複雑である。
ー   全くその通りですが、機械がその難題に挑んでいます。

>> 人間は・・・あらゆる意味を表現しうる言語を構成する力を持っている。
ー   後期の「探究」、言語ゲームに繋がってゆく箇所です。
ー   我々の脳が、世界の構造を把握する能力を先見的に備えている、と観ることができます。環境という物理的拘束条件を、遺伝子という生物学的拘束条件に変換してきている。環境→情報への変換です。

§4-0141
>> (レコード盤と交響曲の関係を例えに)見かけ上、全く異なる形象における内的な類似性が存している。
ー   内的な類似性とは、論理的な関係であり、論理的な関係こそが《意味》です。

§5-12
>> 命題qの真理根拠の全てが命題pの真理根拠である場合、pが真理であることは、qが真であることから帰結する。
§5-131
>> pがqから帰結する。その時、私はqからpを推論することができる。
ー   事象qが起きた場合、その原因はpだと遡及して推論できます。これは当たり前のことのようですが、今の自然言語処理でのあらゆる局面で使用されているベイズ推計の先駆です。

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追記の補足です。

岩波版での「論考」(↓)。
ttps://w
ww.iwanami.co.jp/.BOOKS/33/6/3368910.html

300ページの半分が論考本文、残り半分は、バートランド・ラッセルによる解説と翻訳者による解説と注釈です。

§5、§6の真理函数の解説は、流石にラッセルが詳しく分かりやすいですが、ラッセルによる解説も翻訳者による解説も、それぞれに感想の趣き(論考論)になっていて、微妙に理解が違っていて面白いです。
ー   橋爪大三郎氏や苫野一徳氏の著作やブログ解説にも目を通しましたが、各者各様。

「論考」でインパクトがあるのは命題7ですが、私見では、命題3と命題4こそが本書の白眉であり、古典でありながらまるで今でも色褪せない力を保っていると観ています。


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【12016】番外編・与党参考人が安保法案「違憲」@...
 かっくるなかしま  - 15/6/6(土) 17:45 -

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   政権交代3年目で与党は温くなってきてますかね。

60回の「言語ゲーム」でそれを取り上げる理由を挙げましたが(↓)、

>> 安全保障法制は変更・承認の二次ゲーム、改憲論争は二次ゲームについてのゲームなので《三次ゲーム》に相当しますが、私見では、肝心の《一次ゲーム》、つまり、人々の振る舞いという論点が疎かにされていると観ます。
>> 自衛というのは、一次ゲームでの自然発生的な掟の範疇にあり、抑止・均衡もまた、それが崩れた場合の人々の振る舞いという点で、一次ゲームの範疇にあり、我が国の周辺国の振る舞いもまた、安全保障法制の起点をなしますが、そうしたことが、遠景に押しやられる。← 高次ゲームで捨象される傾向が生じる。二次ゲームである法を起点とするから。

迷走の予兆を感じさせる今回の一件(↓)。
ttp://w
ww.sankei.com/smp/politics/news/150604/plt1506040018-s.html
(産経、与党参考人が安保法案「違憲」〜 “人選ミス”で異例の事態、野党「痛快」、憲法審査会)
ー   長谷部恭男さんがそういう考え方だということは、予め分かりきっているので、人選ミスではないでしょう。自民党内抗争の一端だろうと推測。

私見では、地域的な制限をかけシーレーン防衛に集中しておけば、個別自衛権と日米安保の拡大適用で済むのに、外務省の勇み足で、安保法制は頓挫か、内閣支持率の急下降を伴う展開かとの直感。
ー    ぶっちゃけ、中東やアフリカは欧州問題。

憲法調査会で、違憲性が問われる以上、安全保障法制の今国会は、周辺国の振る舞いという1次言語ゲームから憲法論争という三次言語ゲームに、ボトムアップからトップダウンに観点が移動し、不毛感を強めることでしょう。残念なことです(>_<)

・・・

先週、サーバー側の障害と観られる現象から、第62回の橋爪「言語ゲーム」と第63回の山下「関西弁講義」等が飛んでしまいましたが、改題/修正を含めいずれ再投稿としつつ、各論が先行すると趣旨を含め見通しが悪くなるので、

アウトラインを示しておきます。

・・・

第62回の「言語ゲーム」は、上記のように安保法制の時事の流れに即します。

第63回の「関西弁講義」は、言語の《音》としての機能の重要性が、標準語より関西弁のほうがよほど明確であり、以降で取り上げるソシュール「一般言語学講義」と通底してくるからです。
ー    《言語》にフォーカスしているのは、その機械学習が技術的ブレークスルーの途上にあり、向こう10年の短いスパンでかなりの変化を実感しうるはずだから。インターネットやGPSの次のような位置づけ。機械自動翻訳が進むと社会変化に通じうるから。言い換えると、国際間の直接的な意思疎通の改善が進むであろうこと以外に、あまり世界には平和的な方向に進みそうな要素に乏しそうであるし(笑 

それと関西弁に注目するのは、それが本来の国語の位置づけにあり、江戸元禄期以前の記録は、関西弁か(物語等)、漢文(官公文書、仏教書等)であるから。
ー    本来、高校の古文教育では関西弁を使うべきである、となります。旧仮名使いも関西弁を知らないと使い分けは困難でしょう。

・・・

「関西弁講義」から派生して、関西弁や方言、標準語を網羅する「日本語の構造」が第64回の予定。
ー    我々が学校で習った国語の文法は英文法であって、日本語文法ではないということと、実際、日本語の機械翻訳では、構文解析で国語文法があまり使えず、形態素解析と非国語文法的な係り受け(てにをは←格助詞とは見做さない)の分析に終始するという現実がある。

・・・

第65回はソシュールの予定ですが、本編(記号と概念)のほうではなく、「記号の話」。

イタリア語やスペイン語は、ローマ字式に読みが効きますが、フランス語は、初見で明らかなように、音と記号(表記)がまるで違っていて、ソシュールによれば、フランスが頑なに昔の表記を守るという超保守性を発揮したとのこと。
ー    中世の表記のまま。調べてみると、俗ラテン語とゲルマン人の方言とが混じって固定化された模様。

・・・

ただし、もっとずっと前から記号(表記)が固定化しているのが我々が使用する《漢字》であり、約2500年固定。
     しかし、激しい王朝交代で音は変わる。我が国の音読みは、漢代、三国時代(魏呉蜀)、晋代当たりのもので、音としては最古のものを保存していると言ってよいかもしれない。

ということで、第66回は朝日出版社の「漢語学習辞典」の予定。
ー    この辞典のいいところは、言葉は音だ、というポリシーで、アルファベット順に並べているところです。

結構、面白いです。

例えば、

中国語の漢字には、母音《あ行》で始まるものがほとんどない。

我々が習った音読みでは、《か行》、《さ行》の漢字はほとんど音を変えていない。

英語で語数の少ないw、x、y、zのアルファベットのつく単語が結構多くて、そこでは多種多様に音が変わっている、等。

蛇足ながら、

中国語のできる組織の関与(↓)。

ttp://w
ww.tokyo-sports.co.jp/nonsec/social/407923/
(東スポ、年金情報流出犯の標的は東京五輪か、2015/06/06)

>> メールのウイルスには中国語の書体(フォント)が含まれていた。川合社長は「1人でやるにしては大規模なので組織でしょう。クラウディオメガと同一かは分かっていない。背後に中国がいるという確実な情報もない。しかし、中国語を理解する人物がいるのは事実です」と言う。

標的は安倍政権でしょう(笑   ← 笑えませんが

消えた年金問題で第一次安倍政権は崩壊したので、
ー    当時は行政改革が鬼門。厚労省から情報が流出。特定機密保護法の施行で流石に省庁からの流出は今回はなさそう(笑

二匹目の泥鰌を狙う国内勢力と呼応していると推測しておきます。

暗号化せずにダウンロードできてロムに焼いて持ち出せてパスワードかけないってどういうことなんでしょうか(>_<)
ー    再発防止ではなく、検出したらダミー情報を提供して流出先を追跡・逆探知するくらいすればいいのに。


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【12018】番外編・与党想定外の「違憲」@憲法審査会
 かっくるなかしま  - 15/6/7(日) 10:01 -

引用なし
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   追記しておきます。

前稿でこう推測しましたが(↓)、事実関係の誤認があり、撤回します。
>> 長谷部恭男さんがそういう考え方だということは、予め分かりきっているので、人選ミスではないでしょう。自民党内抗争の一端だろうと推測。

事実関係は、自民党・船田元氏の超凡ミス(>_<)

ttp://sp.mainichi.jp/select/news/20150605k0000m010125000c.html
(毎日、衆院審査会:想定外の「違憲」 与党「野党に利用された」、2015/06/05)

>> 審査会後、自民党の船田元憲法改正推進本部長は「後半の議論が安保法制になったのは予想外だった」と記者団に率直に認めた。船田氏はすぐに自民党の佐藤勉国対委員長に状況を報告。佐藤氏はあきれた様子で「平和安全法制特別委員会への影響を十分に考え、今後は人選やテーマ、スケジュールに配慮するように」と注意したという。

間抜けですよね。

首相訪米前後に、首相議会演説の内容とミスマッチングな「憲法漫画」を船田氏らは出していたので、そのズレた船田氏の感覚に照らし、ミスは起こるべくして起きたと言ってよいでしょう。
ー    無能な味方の危うさというものを改めて痛感させられます(>_<)

とても遺憾ながら、安全保障法制国会の雲行きは怪しいと見ざるを得ません。
ー    数の論理で押せますが、支持率の急降下という代償を払う。10%程度の支持率低下は織り込んでいても、強行突破の場合、公明党がどこまでついて来れるか。大阪都構想の却下で、国会では維新は民主との協調路線を採ることになっているし。

割れた茶碗を接ぐような後ろ向きな話をすると(笑

大阪都構想の住民投票で、共産党や民主党・辻元氏らと組んだ自民党の一部、二階氏・和歌山や谷垣氏・京都らが今更何を言っても遅いです(↓)。
ttp://sp.mainichi.jp/select/news/20150606k0000e010219000c.html
(毎日、自民・二階氏:「呼ぶのが間違い」 憲法審査会で「違憲」、2015/06/06)
>> 「そもそもこういう人を呼んでくるのが間違いだ」と述べた。「党の方針は初めから決まっている。あくまで参考意見で大ごとに取り上げる必要はない」とも語った。

憲法審査会を期に学者が総出で安保法制に反対に回ってきましたが(↓)、
ttp://sp.mainichi.jp/select/news/20150607k0000m040079000c.html
(安保法制:憲法学者が不信感 シンポに1400人、2015/06/07)

そもそも学者を動員して大阪都構想を潰しに行ったのは自民党であるから、安保法制が廃案となれば、自民党の自業自得でしょう。

橋下氏を葬り去った功労者の一人である民主党・辻元氏が早くも快気炎を上げていますが(笑、
ttp://w
ww.sankei.com/smp/politics/news/150606/plt1506060018-s.html
(産経、民主・辻元氏「民主党政権になったら元に戻す」 集団的自衛権行使容認の憲法解釈変更、2015/06/06)

自民党は一部の市議の利益と安全保障を天秤にかけ、その上で市議の利益を大として辻元氏らと組むことを選択したのだから、自業自得と言えるでしょう。

・・・

当の安倍首相は流石にしっかりとしています(↓)。
ttp://w
ww.sankei.com/smp/politics/news/150606/plt1506060011-s.html
(安倍首相、南シナ海関与強める 沿岸国と連携、中国牽制、論戦安保法制、2015/06/06)
>> 4日ぶりの開催となった特別委で焦点の一つとなったのは、中国による人工島建設で緊迫の度合いが強まる南シナ海への対応だ。同海域はシーレーン(海上交通路)の要衝であり、日本の資源輸入には航行の自由が欠かせない。安倍晋三首相は、法整備を進めるとともに沿岸国と連携し、南シナ海への関与を強めようとしている。

現実的な話の延長線上に法改正が位置していているのであって、憲法論争に飛躍するのは不毛であると観ています。

それと、学者は過去を体系化するのが専らの関心事であるから、現在〜将来の関心事からズレてしまう。

憲法論争するにせよ、こっかんさんのご指摘の第98条に見られるように、憲法は自己完結的に閉じているわけではないので、

憲法論争だからと言って、憲法学者だけに論を求めなければならないということはなく、

国際法学者や政治学者(軍事や安全保障の専門家を含む)に論を求めてもよいわけです。


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【12019】第62回・白川静「常用字解」〜漢字と神事...
 かっくるなかしま  - 15/6/7(日) 11:54 -

引用なし
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   予定が順不同で今回は《漢字》っす(^^ゞ

韓国が漢字を廃した影響が呉善花さんの論でした。
ー     その韓国では、漢字教育を再開しようとしているようですが、当然と言えば当然でしょう、なぜなら、韓国が中国と親密であろうとするなら、なおのこと漢字が読めないことは致命的であるから。

ttp://w
ww.heibonsha.co.jp/smp/book/b157401.html
(白川静、常用字解、平凡社、2003/12)

文字の解読の対象が本書では、常用漢字の1945文字です。
ー     白川さんは、漢字の使用制限についてはかなり批判的で、a)占領軍が統治上の便宜で戦後に使用制限を求めたに過ぎない、b)優れた古典が累積しているのにも関わらず、読解できなくなることで文化の継承性が損なわれるのは容易ならぬ事態である、などと指摘しています。

さて、辞典なので、面白いと思う箇所の一端を。

《神》
旁の《申》が《稲妻》であり、神です。威光という言葉が実態を表している。申は言う(申す)と重なるので区別するため偏に《示》を付記。《示》は祭壇の机のこと。

《雲》
雨+云の形ですが、《云》は龍の尻尾です。云が雲の元の字。

《左》
ナ+工の形ですが、《ナ》が左手。工業の《工》は元は呪具です。左は神の佑助を求めるの意。

《右》
ナ+口に見えますが、《又》+口です。又は右手。左と右で書き順の違いは、ナと又の違いから来ていることが分かります。《口》は口の形であるけれど同時に祝詞を入れる器です。右の意味も左と同じく、神の佑助を求めるですが、《道具》が違うわけです。

《巫》
《工》を左手でなく両手で持つのが、巫女さんだとなります。

《尋》
この字の真ん中に、工と口があります。左と右を組み合わせて、神のいるところを尋ねる。

《美》
羊+大。《羊》は神への生贄。《大》は牝羊の腰。つまり成熟した羊が美であり、完全を表します。

・・・

前稿との繋がりで因みに《呉善花》は?、と言えば、
《呉》は、祝詞の器を持って踊る人です。《善》は、羊に言を二つ重ねていて、《言》は口と辛(針)を重ねていて、神獣を前に誓って言うのが善の意。《花》は成立時期が5世紀と新しいですが、元は象形文字の《華》で咲き乱れるの意。華を抜き取るしぐさが拝むの《拝》。拝むの旁が華です。

なんか賑やかで目出度そうな祭事の様子ですね(^^ゞ

冒頭の《神》は元は自然神、金文(殷・周時代の銘文)から祖先神が重なりますが、

神に限らず、

漢字というのは、《神事・祭事》との強い結びつきを示す表記号であると言えるでしょう。

全編、辞書としてでなく読み物として通読すると、

そうした漢字の起源・由来を感じ取ることができるのが同書でした。

また、常用漢字は、圧倒的に《さ行》と《か行》が多いということが一目瞭然に確認できます。
ー    中国語でのs音、k音の漢字がほぼ音読みできる理由。

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追記。

《酒》
元は酉で酒樽。酒を両手で神前に捧げると《尊》です。

《祭》、《祀》
上部左が《月》。月は肉月とも言うことから、羊と同じく捧げもの。マトン? 生贄に右手の又と祭壇の示を組み合わせて、祭。祭りは、祖霊神に対して。一方の祭祀の《祀》は同じ祀るでも自然神に対して。巳=蛇=自然神の代表格。我が国だと日輪=鏡=蛇。

《山》
象形文字としてそのまま。ただし、中国は造山活動が緩いので活火山タイプでなく、風水画に出てくるような浸蝕が進んだ山。

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【12023】第63回・山下好孝「関西弁講義」〜 音調...
 かっくるなかしま  - 15/6/7(日) 17:16 -

引用なし
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   今回は、言葉と大阪都のネタ繋がりで、山下好孝「関西弁講義」です(↓)。
ttp://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784062921800
(関西弁講義、山下、2004/02、講談社メチエ)

同書のキャッチです(↓)。

Q 関西人はなぜ声が大きいのか? 

A 声が大きいのではなく声が高いのだ。

Q 関西人はなぜ関西弁を変えようとしないのか?

A 変えようとしないのではなく変えられないのだ。

著者は京都人でスペイン語専門で奥さんがブラジル人で北大で外国語としての関西弁の講座を持ったという経歴。

なかなか笑える本で、それでいて奥深いので紹介というか、今回は推奨します(笑
ー   実際、関西人にネタを振ると、ほんま言うとおりや、と喜ばれます。← 実践済み

・・・

江戸の都市基盤整備が進む元禄時代まで、事実上の標準語であった関西弁の、その最大の特徴は、《音調》っす。そして母音優勢。

対するに維新期以降に整備の進んだ現代の標準語は、音調を捨象し強弱の《アクセント》と子音優勢。

音調と文法(統語/構文)、ボキャブラリーの3つのそれぞれに特徴が現れますが、

まずは音調。

高い音調をH、アクセントの位置で、関西弁はその特徴が表記されます。
ー   人造言語(by著者)である標準語では、アクセントの位置だけ。

関西弁:

なにぃ ゆうてん ねん

H0   H3   L0  

標準語:

なに  言ってる の
●○   ●○○   ○  ← ● が強いアクセント

たかだかの上記でみ、関西弁の他の特徴も現れていて、

《な行》の優勢、母音《い》の優勢など。

・・・

駆け足で次に統語(構文、文法)。

否定型で、標準語では「ない」が、関西弁では「へん」、「ん」。

行く → 行かへん、行かん

ところが関西弁でも地域性があり、大阪では、行かへんが行けへんに。
ー   行かへんの「へ」の母音「え」の影響で、「か」が「け」に母音交替。

そして、行かへんだと可能表現としての行けないと混同するので、大阪では行かれへんに。

ということで本題?の大阪人と京都人の見分け方ですが(笑

東京人:

今日 来る?
●○  ●○

大阪人:

今日は 行けへんわ
L0   H2

京都人:

今日は 行かへんわ
L0   H2

同じく、

東京人:

今日 来れる?
●○  ○●○

大阪人:

今日は 行かれへんわ
L0   H2

京都人:

今日は 行けへんわ
L0   H2

微妙っすが、《否定型》によって識別するとなります。

・・・

同じく統語(文法)で、命令型です。

標準語との大きな相違は、「〜しろ」の「ろ」がないっす。

で、母音の《い》が優勢で代替(↓)。

標準語:

早く 飲め
●○○ ●○

関西人:

はよ 飲み
L0  L0

注記:母音「い」を使用、従って連用型で代替します。

命令型、強い命令型もあり、

関西人:

はよ 飲め
L0  H2

関西人(○暴系):

飲みさらせ
L3

飲めちゅうのが わからんのか ワレ
L2       H4      L0

《命令型》で関西人を別な基準で識別できそうです(笑

注記: 飲みが飲みよしだと京都人。

・・・

最後にボキャブラリー(語彙)の一端を。

マクド←→マック、ケンタ←→ドチキンなどがポピュラーですが、

懐メロで参ります(↓)。

ttp://sp.utamap.com/showkasi.php?surl=S00530

踊り疲れたディスコの帰り
これで青春も終りかなとつぶやいて
あなたの肩を ながめながら
やせたなと思ったら 泣けてきた

大阪で生まれた女やさかい
大阪の街 よう捨てん
大阪で生まれた女やさかい
東京へは ようついていかん

踊り疲れたディスコの帰り
電信柱にしがみついた夜


中段箇所の、大阪で生まれた女やさかい、ですが、

「さかい」の使用頻度は減っていて、今では、

大阪で生まれた女や「から」 だそうです。

さかいは 堺でも よう 言わん
H0    H0  L0  L0
 
それと、出だしの前段とサビの後の後段は、関東弁なので、

中段の関西弁が引き立つ歌詞構成っすね。気がつかなかった(@_@)

男は関東出身なのでしょう、

大阪人には覚えにくい関東弁の口調が伝染ったということは、相当に深い親密さを感じさせます(^^;;

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追記です。

関西人の筆者曰く、関西人にとって最も耳障りな表現は、

横浜、静岡などでの「じゃん」だそうです(笑

断定の表現は、標準語で「だ」、関西弁で「や」、「じゃ」。

じゃんは、断定の「だ」+推量の「あろう」の変形で、

断定への違和感とオチのない推量が、ダブルに響くようっす。

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追記です。

以前にネタにしたことがありますが、手元の古語辞典(三省堂)では、

とても興味深いのは、《ら行》の言葉が一つもないことです。← 不思議(@_@)
ー    これは古今和歌集や万葉集を調べていて気がつきました。最初から辞書に当たれば一目瞭然だったのに(>_<)

同時に古語辞典〜昔の標準語なので関西弁っす〜で一目瞭然に確認できるのは、《あ行》、つまり母音を語幹の筆頭とする語彙が潤沢なことです。
ー    上記の関西弁講義では、関西弁が母音優位とありますが、そうした特徴と語彙の量とは無関係ではないと思われます。

古語に《ら行》がないということで、中国語のr音の漢字を比較参照すると、人ren→nin、日ri→nichi、然ran→nen、熱re→netsu等、尽く、r→nで《な行》に転換されていて、漢字そのものは大和言葉集である古語辞典には載りませんが、これも関西弁の《な行》優位と無縁ではないように思われます。

関西弁の抑揚ある音調は、四声を持つ中国語を想起させるところがあるけれど、古語(関西弁)の擁する語彙の体系はまるで異なっていると言ってよいでしょう。

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【12024】第64回・長谷部恭男「憲法と平和を問いな...
 かっくるなかしま  - 15/6/8(月) 11:42 -

引用なし
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   予定外で話題の長谷部「憲法と平和を問いなおす」(↓)。

ttps://w
ww.chikumashobo.co.jp/product/9784480061652/
(長谷部、同上、ちくま新書、2004/04)

ま〜、なんと言うか、長谷部氏の論(↑)は、どちらかと言えば自分好みで、憲法は価値中立的で、多様な価値を調停する法のスーパーヴァイザーが憲法であり、憲法の条文の一部を取り出して〜9条にせよ、権利にせよ、義務にせよ、人権にせよ〜金科玉条のように崇め奉るのは、それこそ立憲主義にもとる、って話《だった》んですけどね。

あまり詳しく取り上げません。というのも、予定外でここに取り上げる理由でもあるけれど、

長谷部さんは国会の憲法審査会で「憲法と平和を問いなおす」をそのまんま語っているからです(↓)。
ttp://w
ww.bengo4.com/other/1146/1287/n_3210/
(弁護士ドットコム、《発言全文》安保法案「違憲」とバッサリ、与党推薦の長谷部教授が語った「立憲主義」、2015/06/05)
>> もともと、この日の議論のメインテーマは「立憲主義」だったが、民主党の中川正春議員が「率直に聞きたいんですが、先生方は、今の安保法制、憲法違反だと思われますか。先生方が裁判官となるんだったら、どのように判断されますか」と参考人の憲法学者3人に質問したところ、全員揃って「違憲だ」と明言するという展開になった。

そもそものお題が《立憲主義》だったので、発言の一部の《違憲》が大々的に報じられているけれど(典型的にNHK)、専らの発言内容はこの「憲法と平和を問いなおす」です。

・・・

これを観て改めて思いました。新書一冊買って読めば済むものを税金使って国会で何をやってんだろうって( ̄▽ ̄)b

しかもです。立憲主義という言葉は、昨年の集団的自衛権の閣議決定以降、リベラル左派の使用頻度が上がり、《平和主義》というフレーズが陳腐化したせいか、平和主義の代名詞的に使用されている。

自民・船田氏らは、お題が立憲主義だったから展開を想定外としていたけれど、

立憲主義というお題を設定すること自体が、戦術的に大きな誤りだったのは明らかと言えるでしょう。
       
それと立憲主義とは言うけれど、それは意訳の邦訳であって、元はConstitutionalismで《憲法主義》だから、立憲主義者に意見を求めるということは、憲法主義者に尋ねるということです。

・・・

同署でなく、本件に関して言えば、自分の感覚に最も近いのはこうした見解です(↓)。

ttp://gendai.ismedia.jp/articles/-/43645#
(現代ビジネス、憲法学者の限界! アメリカが「世界の警察官」をやめた今、日本はどう生きるのかを考えるべき、2015/06/08、高橋 洋一)
>> 一般論として、憲法学者に限らず法律学者は、「法律にこう書いてあるから○○だ」や「この法律はこう解釈すべきだから××だ」という論法をとる人たちの集まりで、今ある法律や法解釈を金科玉条のように扱うので、法改正や解釈変更には消極的なことがしばしばある。
>> 一方、国会議員は、今の法律では現場として不都合である場合、法律改正することに拘りはない。まして、国会議員は法律を作るのが仕事であるので、現場を知らずに法律改正に反対する法律学者とは意見が合わないことも少なくない。
>> また、国会での審議過程において、法案を憲法違反とする意見は、反対者のほうから出されることが多いが、実際に違憲を決めることができるのは、最高裁である。法案が成立した後に、訴訟が実際に行われて、初めて司法が判断して、違憲になるわけだから、国会の参考人質疑は単なる学者の意見でしかない。

違憲という意見が学者から出ても、だから違憲とは全くなりません。
ー    法学者からの意見が重用されそれが法治に反映されるというなら、それを最も率先垂範できているのはイスラム圏でしょう。

我が国においては、三権がそれぞれの役割を担い、また、法律を作るも変えるもそれが可能なのは、三権で唯一、選挙を通じての委託を国民から受けている立法府だけ。

三権の役割を理解し得ないとすると、それこそが立憲主義にもとる、となります。

・・・

派生して、こうした意見も自分のツボにはまるものです(↓)。

ttp://agora-web.jp/archives/1644241.html
(アゴラ、憲法を変えても日本は変わらない、池田信夫、2015/06/06)
>> 新憲法では議院内閣制が明記されたが、このタコツボ構造は残り、むしろ政治任用がなくなって官僚の「純潔性」が強まった。これが官僚内閣制の起源である。憲法を改正してもこの構造は変わらないが、これを変えない限り日本は変わらない。それは少なくとも江戸時代から日本に根づき、すべての日本人の「システム1」に埋め込まれているからだ。

逆説的な話ですが。

憲法は国の一つの土台として重要であるけれど、果たして憲法(だけ)で国が成り立っていると言えるのかどうか? です。

池田氏が指摘しているのは、憲法を変えようが変えまいが変わらん、ということだけれど、それは国の土台もしくは国を作動させる原理が、憲法の枠外にあるということを示唆しているわけです。

私見では、我が国では、律令制も御成敗式目も帝国憲法も現行憲法も皆ある程度イキな状態の《ハイブリッド政体》になっていて、軟性の不文憲法のほうが性に合っているのだろうと思っています。
URL省略。
(Wiki、不文憲法)
>> 不文憲法となる要因はいくつかある。歴史的経緯により国家の方針が決定された場合。慣習法など複数の法律がその役割を果たしている場合。

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【12025】Re:番外編・与党想定外の「違憲」@憲法審...
 あぶさん  - 15/6/8(月) 16:03 -

引用なし
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   ▼かっくるなかしまさん:

こんにちは。
いつも拝見しているのですが,
なかなかカキコミに至りません(^^;

(大胆割愛,ごめんなさい)

>現実的な話の延長線上に法改正が位置していているのであって、憲法論争に飛躍するのは不毛であると観ています。
>
>それと、学者は過去を体系化するのが専らの関心事であるから、現在〜将来の関心事からズレてしまう。
>
>憲法論争するにせよ、こっかんさんのご指摘の第98条に見られるように、憲法は自己完結的に閉じているわけではないので、
>
>憲法論争だからと言って、憲法学者だけに論を求めなければならないということはなく、
>
>国際法学者や政治学者(軍事や安全保障の専門家を含む)に論を求めてもよいわけです。

自民党の稲田氏がおっしゃったように,
違憲審査の最終判断は最高裁判所ですし,
最終決断は,国権の最高機関である国会だ,ということですよね。

世論の空気をどうにかしないと難しい局面になるかもしれませんが。
では,また。

【12028】Re:番外編・与党想定外の「違憲」@憲法審...
 かっくるなかしま  - 15/6/8(月) 17:18 -

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   ▼あぶさんさん:

こんにちは。

>いつも拝見しているのですが,
>なかなかカキコミに至りません(^^;

お久しぶりです。

体調の加減でもよろしくないのかとちと心配しておりました、

よかった、ホッ(^^ゞ

>(大胆割愛,ごめんなさい)

>>現実的な話の延長線上に法改正が位置しているのであって、憲法論争に飛躍するのは不毛であると観ています。
>>それと、学者は過去を体系化するのが専らの関心事であるから、現在〜将来の関心事からズレてしまう。
>>憲法論争するにせよ、こっかんさんのご指摘の第98条に見られるように、憲法は自己完結的に閉じているわけではないので、
>>憲法論争だからと言って、憲法学者だけに論を求めなければならないということはなく、
>>国際法学者や政治学者(軍事や安全保障の専門家を含む)に論を求めてもよいわけです。

>自民党の稲田氏がおっしゃったように,
>違憲審査の最終判断は最高裁判所ですし,
>最終決断は,国権の最高機関である国会だ,ということですよね。

そうですよね。

そうなはずなんですが、

確かに長谷部さんは一家言ある学者として優秀な方だと思いますが、

かと言ってじゃあそれに右に倣えじゃおかしくて、

学者が違憲判断だから議会が立法してはいけないというような巷の主張は、それこそ立憲主義に反してしまっていると思います。

・・・

>世論の空気をどうにかしないと難しい局面になるかもしれませんが。
>では,また。

御意。

山本七平の《空気》の研究みたいなものっす。

社会的な同調圧力が働いて雰囲気に流れるというやつ。

で、中国や北朝鮮がしでかすと、雰囲気がどとっと変わって、で、その時にはもう遅い、みたいな(^^;;

頭に血が昇らないうちに先に手を打つというのが安全保障の基本だと思っていますし、

当の長谷部さんだって本来は、ポピュリズム的に世論が空気で流されて政策が大きくブレるのは良くないから、予め自己抑制的な縛りをかけておく必要があって、それが憲法の一つの機能だという考え方のはずなんですけどね。

・・・

口直しにこちら(↓)を(^^)

ttp://w
ww.news-postseven.com/archives/20150608_327571.html?PAGE=1#container
(週刊ポスト、長谷川、安全保障の見直しを巡り机上の空論が国会で延々続く理由とは、2015/06/08)

>> これらは、どちらも「もしも○○になったら」という「たられば論」だ。いま日本が直面しているのは、そんな仮定の話なのか。そうではない。中国が尖閣諸島や南シナ海で日本や周辺諸国を脅かしている現実の脅威である。 

>> 本音を言えば、政府も野党もそれは分かっている。なのに、なぜ真正面から現実の脅威に向き合おうとしないのか。それには理由がある。

>> 政府としては中国を脅威と名指しすれば、相手を一層刺激して事態を悪化させかねない。だから、できるだけ中国と言わずに「力による現状変更は認めない」と言う。 

>> 一方、野党もはっきり中国の脅威を持ち出すと「では中国にどう対抗するのか」と逆襲されてしまう。それはなんとか避けたいから、あえて中国脅威論を言い出さない。それで、双方が机上の空論を延々と続けるはめになっているのだ。そうしている間に、事態はどんどん進んでしまった。

誤ったメッセージとなりうるから、あからさまに、中国に対抗する必要があるとも、我が国が重心を第一列島線にシフトするから同様に朝鮮半島は手薄になる分、韓国に任せる、とは、与党/内閣が言えるわけがないので、

物事が分かっている次世代の党や維新の党の一部議員に、猫の首に鈴を付ける役回りを買って出てもらえばいいと思います。参院維新の松沢氏とか。

それとあと、国会で野党が違憲、違憲と五月蠅いようだったら、

この際、与党は開き直って、日米安保は集団防衛だが違憲なのか? 自衛隊は狭義の戦力だが違憲なのか?とぶつけてしまえばいいと思います。←場外乱闘を並行させる
ー     ついでに憲法学者を参考人招致して、彼らのお花畑ぶりを国会中継を通じて周知するとか。それと憲法学者を日本人に限るのは固定観念だと思っているので、米国や英国、ドイツの学者を呼んでもいいと思います。

ではまた(^-^)/

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【12033】Re:番外編・与党想定外の「違憲」@憲法審...
 こっかん  - 15/6/9(火) 21:31 -

引用なし
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   ▼かっくるなかしまさん:
▼あぶさんさん:

こんばんわ

大幅割愛失礼します

>>>現実的な話の延長線上に法改正が位置しているのであって、憲法論争に飛躍するのは不毛であると観ています。
>>>それと、学者は過去を体系化するのが専らの関心事であるから、現在〜将来の関心事からズレてしまう。
>>>憲法論争するにせよ、こっかんさんのご指摘の第98条に見られるように、憲法は自己完結的に閉じているわけではないので、
>>>憲法論争だからと言って、憲法学者だけに論を求めなければならないということはなく、
>>>国際法学者や政治学者(軍事や安全保障の専門家を含む)に論を求めてもよいわけです。
>
>>自民党の稲田氏がおっしゃったように,
>>違憲審査の最終判断は最高裁判所ですし,
>>最終決断は,国権の最高機関である国会だ,ということですよね。
>
>そうですよね。

御意

>そうなはずなんですが、
>
>確かに長谷部さんは一家言ある学者として優秀な方だと思いますが、
>
>かと言ってじゃあそれに右に倣えじゃおかしくて、
>
>学者が違憲判断だから議会が立法してはいけないというような巷の主張は、それこそ立憲主義に反してしまっていると思います。
>
>・・・
>

おそらく、違憲意見かと…

今回の経緯に対する私見ですが、国会での議論が議論ではなく、時間を浪費するだけならば、専門家を引っ張り出して来て議論・論争でしょうか?
安全保障では悠長に構えることはできないですが、違憲論をあらかじめ出しておき、次に合憲論?

本来は、政治家が国会で持ち寄って議論するべきかもしれません…(国会をあまり見ていないので、本当はやっているのでしょうか?)

>>世論の空気をどうにかしないと難しい局面になるかもしれませんが。
>>では,また。
>
>御意。
>
>山本七平の《空気》の研究みたいなものっす。
>
>社会的な同調圧力が働いて雰囲気に流れるというやつ。
>
>で、中国や北朝鮮がしでかすと、雰囲気がどとっと変わって、で、その時にはもう遅い、みたいな(^^;;
>
>頭に血が昇らないうちに先に手を打つというのが安全保障の基本だと思っていますし、
>
>当の長谷部さんだって本来は、ポピュリズム的に世論が空気で流されて政策が大きくブレるのは良くないから、予め自己抑制的な縛りをかけておく必要があって、それが憲法の一つの機能だという考え方のはずなんですけどね。
>
今回の御三方には、一人の法学部の学生気分で直接質問したい…答えはわかってはいるけれど…

>
>口直しにこちら(↓)を(^^)
>
>ttp://w
>ww.news-postseven.com/archives/20150608_327571.html?PAGE=1#container
>(週刊ポスト、長谷川、安全保障の見直しを巡り机上の空論が国会で延々続く理由とは、2015/06/08)
>
>>> これらは、どちらも「もしも○○になったら」という「たられば論」だ。いま日本が直面しているのは、そんな仮定の話なのか。そうではない。中国が尖閣諸島や南シナ海で日本や周辺諸国を脅かしている現実の脅威である。 
>
>>> 本音を言えば、政府も野党もそれは分かっている。なのに、なぜ真正面から現実の脅威に向き合おうとしないのか。それには理由がある。
>
>>> 政府としては中国を脅威と名指しすれば、相手を一層刺激して事態を悪化させかねない。だから、できるだけ中国と言わずに「力による現状変更は認めない」と言う。 
>
>>> 一方、野党もはっきり中国の脅威を持ち出すと「では中国にどう対抗するのか」と逆襲されてしまう。それはなんとか避けたいから、あえて中国脅威論を言い出さない。それで、双方が机上の空論を延々と続けるはめになっているのだ。そうしている間に、事態はどんどん進んでしまった。
>
>誤ったメッセージとなりうるから、あからさまに、中国に対抗する必要があるとも、我が国が重心を第一列島線にシフトするから同様に朝鮮半島は手薄になる分、韓国に任せる、とは、与党/内閣が言えるわけがないので、
>
>物事が分かっている次世代の党や維新の党の一部議員に、猫の首に鈴を付ける役回りを買って出てもらえばいいと思います。参院維新の松沢氏とか。
>
>それとあと、国会で野党が違憲、違憲と五月蠅いようだったら、
>
>この際、与党は開き直って、日米安保は集団防衛だが違憲なのか? 自衛隊は狭義の戦力だが違憲なのか?とぶつけてしまえばいいと思います。←場外乱闘を並行させる

安倍首相の反論は「砂川事件」日米安保>憲法

憲法第98条二項に関して(長いので暇な時にご覧ください)↓
ttp://ww.shugiin.go.jp/internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/chosa/shukenshi050.pdf/$File/shukenshi050.pdf

昨今の他国の憲法は

上位 国際法
ーーーーーー
下位 憲法

のようです。
>ー     ついでに憲法学者を参考人招致して、彼らのお花畑ぶりを国会中継を通じて周知するとか。それと憲法学者を日本人に限るのは固定観念だと思っているので、米国や英国、ドイツの学者を呼んでもいいと思います。

憲法学の域で不毛に成るかもしれませんが、次の一手で西修氏・百地章氏・小森義峯氏招致とか?!

【12034】Re:番外編・与党想定外の「違憲」@憲法審...
 かっくるなかしま  - 15/6/10(水) 19:10 -

引用なし
パスワード
   ▼こっかんさん:
▼あぶさんさん:

こんにちは。

資料の添付、ありがとうございますm(__)m

以下、同じく大幅割愛失礼します。

>>確かに長谷部さんは一家言ある学者として優秀な方だと思いますが、
>>かと言ってじゃあそれに右に倣えじゃおかしくて、
>>学者が違憲判断だから議会が立法してはいけないというような巷の主張は、それこそ立憲主義に反してしまっていると思います。

>おそらく、違憲意見かと…
>今回の経緯に対する私見ですが、国会での議論が議論ではなく、時間を浪費するだけならば、専門家を引っ張り出して来て議論・論争でしょうか?
>安全保障では悠長に構えることはできないですが、違憲論をあらかじめ出しておき、次に合憲論?

この際、面倒くさいんで(笑、 だったら、

違憲論→合憲論→改憲論の流れを一気につくってしまったら、って感じっす。

>本来は、政治家が国会で持ち寄って議論するべきかもしれません…(国会をあまり見ていないので、本当はやっているのでしょうか?)

国会がワークしないので、いささか本末転倒っすが、

諮問機関の有識者懇談会のほうでやっているということでしょう。

・・・ 

>>当の長谷部さんだって本来は、ポピュリズム的に世論が空気で流されて政策が大きくブレるのは良くないから、予め自己抑制的な縛りをかけておく必要があって、それが憲法の一つの機能だという考え方のはずなんですけどね。

>今回の御三方には、一人の法学部の学生気分で直接質問したい…答えはわかってはいるけれど…

ほんと、質問してみたい。砂川裁判の合憲判決は違憲ですか?とか(^^
ー    集団防衛の条約に基づき半世紀も前線基地という役務提供を行ってきているはずなんだが。双務的な集団的自衛権の行使以外の何ものでもない。

・・・

>>口直しにこちら(↓)を(^^)
>>ttp://w
>>ww.news-postseven.com/archives/20150608_327571.html?PAGE=1#container
>>(週刊ポスト、長谷川、安全保障の見直しを巡り机上の空論が国会で延々続く理由とは、2015/06/08)
>>この際、与党は開き直っ8て、日米安保は集団防衛だが違憲なのか? 自衛隊は狭義の戦力だが違憲なのか?とぶつけてしまえばいいと思います。←場外乱闘を並行させる

>安倍首相の反論は「砂川事件」日米安保>憲法
>憲法第98条二項に関して(長いので暇な時にご覧ください)↓
>ttp://w
>ww.shugiin.go.jp/internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/chosa/shukenshi050.pdf/$File/shukenshi050.pdf

安倍首相の反論は全くピンポイントで的確で、憲法と国際法/条約の《相補性》を示していますよね。
ー    加えて、立法するのは議会、合憲性を判断するのは最高裁であり、学者には責任がない以上、権限がないことを如実に示しています。学者が権限を行使するのであれば参院議員になればよいのです。本来そのための参院っすから。

>上位 国際法
>ーーーーーー
>下位 憲法

>のようです。

資料を合わせて拝見しました。

近年で言えば、こうした関係は、マーストリヒト条約/EU法と欧州諸国の憲法との関係に象徴されるものと思われます。

>>ー     ついでに憲法学者を参考人招致して、彼らのお花畑ぶりを国会中継を通じて周知するとか。それと憲法学者を日本人に限るのは固定観念だと思っているので、米国や英国、ドイツの学者を呼んでもいいと思います。

>憲法学の域で不毛に成るかもしれませんが、次の一手で西修氏・百地章氏・小森義峯氏招致とか?!

いいっすね○(^o^)○

本来、安全保障法制懇談会の有識者メンバーを参考人招致すればよかったんですよ、西さん然り、あるいは国際政治畑の北岡さんとかも。

西さんを呼んでの《大乱戦》を所望○(^o^)○

元共産党・筆坂氏による書評(↓)。
ttp://w
ww.sankei.com/smp/life/news/150510/lif1505100026-s.html
(産経、元共産党政策委員長・筆坂秀世が読む『いちばんよくわかる! 憲法第9条』西修著書評、2015/05/10)

超皮肉(↓)。
>> 共産党など、護憲を叫ぶ人々は、「憲法第9条は世界の宝」と言う。では問いたい。現憲法が制定される際、この第9条に唯一反対を貫いた政党はどこか。共産党である。当時、共産党は第9条を「一個の空文」であると批判し、「民族独立のため反対しなければならない」と啖呵を切っていた。反対の最大の理由は、自衛戦争まで吉田茂首相(当時)が否定していたからである。実に的確な批判だった。本書が指摘するように、共産党は「自衛戦争と積極的平和主義を肯定していた」のである。それがいまや護憲派なのである。

今まさに、《字面で読むな》と官邸が憲法学者に言っていて笑えます(↓)。
>> 憲法を字面だけで解釈してはならない、とは本書が強調するところだ。

だったらこの際、乱戦に持ち込んでしまえと考える所以です(↓)。
>> 護憲派は、自衛隊は憲法違反だと言い、日米安保にも反対だと言う。要するに“丸腰日本”というのが彼らの主張である。その無責任さは、実は護憲派も分かっている。だから即時自衛隊解体、安保廃棄とは叫べないのである。こんな無責任を放置しないためにも第9条をすっきり改正することが重要なのである。どうやって国を守るのか、その回答を持たない護憲派の最大の泣きどころこそ第9条なのである。

立法への反対を含めて立法権限を有する国会議員が、無責任ということはあり得ませんので。

おそらくは、西さんを招致する案はあったはずだと思いますが、西さんの意見が偏っているというよりも、西さんの所属する駒澤大学が曹洞宗系なので、公明党/創価学会に憚って没になり、かくなる事態に至ったものと強く推測しております(笑

ではまた。

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【12038】第65回・ホフスタッター「ゲーデル・エッ...
 かっくるなかしま  - 15/6/11(木) 1:29 -

引用なし
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   時事との関連で予定外ですが、ホフスタッターの「ゲーデル・エッシャー・バッハ」(↓)。

ttp://w
ww.hakuyo-sha.co.jp/cgi-bin/search.cgi?mode=detail&id=317
(「ゲーデル、エッシャー、バッハ 〜あるいは不思議の環」、ダグラス・R・ホフスタッター 著、野崎昭弘/はやし・はじめ/柳瀬尚紀訳、1985/2005)
ー   ぶっちゃけ難解ですが、インスパイアされるところが多々あり、一四半世紀にかけて読み返しているってところっす(^^;

流れ的には、第60回のウィトゲンシュタイン以降に持ってくるのが適切ですが、

時事との関連で、同書よりその一部、但し枢要な箇所でもある第19章「自己言及と自己増殖」から援用し、表題副題の時事ネタ(安全保障法制、憲法論議)に着地させます。
ー   このため、本来の同書の持ち味であるゲーデルの不完全性定理への計算機科学的なユニークな接近法(第8章、13章、14章)から逸脱します。

・・・

「自己言及と自己増殖」という章立てからも、そこでのお題は、数理論理学の形式システムと分子生物学とのアナロジー(類推)です。
ー    アナロジーと言っても、抽象的構造の深層レベルでの共有と類縁関係を示唆するものでなかなか奥深いアナロジー。

両者間のアナロジーを図式化すると、(p526)


相互作用のネットワーク
(言明と、言明についての言明等)
     ↑
  字形的数論での言明 →  ↓
     ↑        
   (算術化)       ↓  
     ↑
    数論     (フィードバック)
     ↑
   (解釈)        ↓
     ↑
  字形的数論での文字列 ← ↓


注記1:
字形的数論は、所謂、形式システムで、記号処理系。

注記2:
解釈系(インタープリタ)が系の内部に組み込まれているので、文字列に含まれる《構文論》的な意味(典型的には自分自身、従って自身と他者との区別)を解釈/再解釈して、その再解釈の過程で数論の《意味論》の世界に転換して、そこでゲーデルコードというトリックを介して、再び字形的数論という《構文論》の世界に入るという構造。

注記3:
上記は一貫して記号処理なので、その全体を《構文論》の世界と見做すこともできます。その場合、この構造と対比させる自然システム(以下の分子生物学等)を《意味論》の世界と見做す。

注記4:
構文論←→意味論と対比の関係にあるけれど、同時にそれぞれに構文論と意味論の世界を抱えている、となる。ややこしいっすが、意味論的な構造を構文論に取り込むというアイデアがそこにあるからだとなります。

注記5:
構文論の世界に意味論的な構造を取り込むことで、形式システムは自己診断能力を身につけますが、自分で自分を眺めるということでは《内省》の能力なので、《自意識》に喩えられる。その自意識にもレベルがあり同時に辿り着く限界もあり、強力な形式システムという場合の強力とは、自意識の最高レベルの意。

注記で不完全性定理そのもののほうに逸脱してしまっているので元に戻し、分子生物学のほうはこちら(↓)。

相互作用のネットワーク
(タンパク質と、タンパク質に作用するタンパク質等)
     ↑
  タンパク質  →  ↓
     ↑        
   (翻訳)     ↓  
     ↑
    RNA   (フィードバック)
     ↑
   (転写)     ↓
     ↑
    DNA    ← ↓


二つの図式から、

深層レベルでの類比関係を認める、という話になるわけですが、
ー    ゲーデルコード(字形的数論に移行する際の暗号化)と塩基による遺伝コードとがパラレルである、ゲーデルコードで生成される言明の引用符号(索引)がアミノ酸とパラレルである、構文論的な情報が意味論的な実体を得るという点で、RNAと数論がパラレルである、等。

それでは、数理論理学の形式システムで、ゲーデルの不完全性定理に相当するものは何だろう?と設問すると、(p528)
 
その答えは、

次のようなDNAのストランド(配列)を設計することが常に可能である、

つまり、

そのDNAストランドを細胞に注入すると、転写の際に細胞を破壊してしまうようなタンパク質を製造し、その結果、DNAは増殖せずに終わる。

鳥インフルエンザやエイズ、エボラ、ある種の癌などの悪性のウィルスに相当します。

要は自滅もしくは自爆の因子です。

こうしたDNAストランドは、不完全性定理の起源を遡るとカントールやラッセル、リシャールらのパラドクス、源流としての《エピメニデス文》に類比します。

クレタ人曰く 「クレタ人は嘘つきだ」

翻って、安全保障法制あるいは憲法論議。

相互作用のネットワーク
(行動と、行動に関連する行動等)
     ↑
   人々の行動 →   ↓
     ↑        
   (翻訳)      ↓  
     ↑
    法律   (フィードバック)だ
     ↑
   (解釈)      ↓
     ↑
 人々の行動パターン ← ↓

或いは、

相互作用のネットワーク
(行動と、行動に関連する行動等)
     ↑
   国々の行動 →   ↓
     ↑        
   (翻訳)      ↓  
     ↑
 憲法/国際法/条約  (フィードバック)
     ↑
   (解釈)      ↓
     ↑
 国々の行動パターン ← ↓


悪法は経済・社会システムを疲弊させたり破壊したりします。

安全保障法制について言えば、

控え目に言って、悪法となるかどうかは執行の在り方次第となるけれど、

同時に、諸国がそれに類するもしくはそれを超える法制を完備しつつも、直接的には破壊・疲弊に陥っているという事実は観測されていない。

他方で、憲法第9条に関して言えば、

純粋にそれが法を律する法として、上記の系の部分系である翻訳系の中で作動したことは一度たりともない。

一度たりとも作動したことがないのは、それがエピメニデス文であるからだ、と観ています。

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【12051】第66回・朝永振一郎「量子力学的世界像」...
 かっくるなかしま  - 15/6/15(月) 17:27 -

引用なし
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   やや不規則で今回は朝永振一郎の「量子力学的世界像」っす(↓)。

ttp://w
ww.msz.co.jp/book/detail/05118.html
(朝永振一郎、量子力学的世界像、みすず/1982/07、弘文堂/1970/11)

・・・

取り上げてみる背景についてまず申し述べると、

世界は関係でできている、というのが第40回の竹内「世界が変わる」の要旨でしたが、それを一言で言えば、《事的世界観》です。

事的世界という表現には前史があって、それが廣松渉のまさに「事的世界観の前哨」です。
ttp://w
ww.chikumashobo.co.jp/product/9784480091000/
(廣松渉、同上、筑摩、2007/10収録、初版1975)
ー   左翼は凄かったな〜、「昔」は(笑、もとい、

あ〜だこ〜だ、かなり難解に書いてありますが、関係性の世界=事的世界観に、哲学的に強い影響を及ぼしたのが、一般相対性理論と場の量子論の二つであって、

後者の《場の量子論》の影響について、廣松氏は朝永氏の上記「量子力学的世界像」に明白に論拠を置いているので、

廣松「事的世界観の前哨」を取り上げようとすると朝永「量子力学的世界像」は、《避けられない》となります。

そして、廣松「事的世界観の前哨」は、

人文科学的にはソシュールの《一般言語学》に通じ、
ー   ソシュールは言語を事的世界的に扱っているとなります。

同時に、廣松氏の論は、ゲシュタルト心理学の《図と地》の問題を介して、計算科学的には、第65回のホフスタッター「ゲーデル・・」に通じるとなります。
ー   相補的に、真の命題を地、偽の命題を図とした時、ゲーデルの不完全性定理の、証明不能な命題の中に真の命題も偽の命題も必ず在る、という主張は、図と地の区分不可能性の一端を示します。

・・・

堅苦しいっすが、《哲学》と言った時、それは本来は、(注記、西洋では)

世界はどうあるか?という《存在論》と、我々は世界をどう認識しているのか?という《認識論》の二つで構成されます。

なので《世界観》の変化をお題にするということは、

存在論の変化と認識論の変化の二つを取り上げるということであって、

朝永「量子力学的世界像」もその二つを取り扱っていて、《世界像》としています。

・・・

さて、その内容と感想ですが、収載されている第三章「光子の裁判」が最も有名ですが、(ヤングの干渉実験の優れた喩え話として)

本題は、ズバリ第四章の「量子力学的世界像」です。

自分の理解のもとでその内容は一言で言えば、その世界像とは《場の量子論》の世界像であり、

その場の量子論が含意する存在論、認識論に関わる主張は、

a)存在論 
物理的な場(素粒子と力を存在させる場)は、時空そのものの属性だ、と考えるので、器と中身が一体化している、地と図が一体化しているとなる。つまり、そこにそれが在る、という存在の捉え方が、今でもこれからも一般的に通用するけれど、正確な捉え方では実はない、となります。

b)認識論
場の量子論に移行する前の量子力学の段階で、観測する対象(客体)と観測する行為(主体)とが相互に作用し、知りたいことと知ろうとすることが一体化するとともに、どこまで知ることができるかということに一定の制約を課すという形で、認識論に修正がかかります。

注記:
上記a)の存在論での変革の嚆矢は、最初の場の理論である一般相対性理論。枠組みとしては、一般座標変換に対する物理法則の共変性という要請が共変微分を介して時空に曲率をもたらし、同時に、重力と加速度の等価原理が、時空と物質(器と中身)を一体化させている。

・・・

内容の構成としては、

古典的な場の理論(波動の世界)と量子力学の作用量子(粒子)の世界とが上手く統一できない、どうする? という設問から入り、(p117)

波動と粒子というものが二種あるのではなく、実際には、波動でも粒子でもないものが一種在ると考えれば、矛盾を解消しうる、となり、(p126) ・・・☆

間に、波動と粒子を収容する数学的枠組みの概観を示し、(p133〜155)
ー    ここは通常はシュレディンガーの波動力学から説明するところですが、ハイゼンベルクの行列力学で解説していてとてもユニーク。

場は時空それ自体の性質だ、と帰着しますが、(p156)

それでもなお、第二の矛盾が出てきてしまって、
ー    数学的枠組みの中に実在を十分に収容しきれていない。
ー    相対性理論と量子化が馴染まない。波動でも粒子でもないその一種の存在が自分自身と再帰的に作用して、自己エネルギーの無限大を招く。

その難問を《繰り込み》によりまさに解決したのが朝永氏ですが、

完璧と言っていいくらいその手法は標準理論(量子電磁力学)の成功の代名詞であるにもかかわらず朝永氏は、理論は矛盾を内在させたままだと見做していて、(P174)

最後に、

相互作用を極限まで小さくできるという理論の前提、つまり、互いに《無関係》な素粒子という描像が、成り立つか修正を迫られるかのどちらかしか自然は許さないだろう、(p174)・・・☆

と見通しを立てています。

・・・

感想は大きく二つで、(上記の二つの☆箇所)

まず、驚くべきは、上記末尾の朝永氏の指摘/問題提起は、
ー    それは、事的世界の把握に踏み出した場の理論がなおも未だ事的世界の把握には至らないというだけでなく、存在論的にも認識論的にも、理論が内部矛盾を抱えているという指摘。

昭和22年(1947)のものであるにも関わらず、半世紀を経過しなおも丸ごとイキの状態にあること(@_@)

次いで、p126の実在として一種、の箇所。

ここは、我々が、何かを知る/理解するという場合、

《実在ー性質》のペアで捉えようとしていて、波動も粒子も、そのペアのもとで、区別している、カテゴリー/分類を試みる、

にも関わらず、過剰に結びつけると見誤り、

とは言え、誤りを正すにせよ、《実在ー性質》のペアで考えるということを、我々は免れないだろう、と想起させるところが興味深いということです。

《粒子ー性質》、《波動ー性質》は却下され、 

《波動でも粒子でもないものー実験が示す性質》と捉えることには変わりがないので。 
ー    二元論を却下し、一元論に行き着いたが、なおも未解決。

言語との関連で、ソシュールは、言語を《概念ー聴覚映像》とペアで捉えていて、これは一元論的、事的なアプローチとして類比し得ると観ています。 

同時に、ソシュールの延長線上にあると自分が観ている別稿での自然言語処理では、

発話やテキストを《名前ー素性》、あるいは《ラベルー素性》というペアで計算機の力づくで処理し、← キーと値のペア、《keyーバリュー》ペア

区別やカテゴリー/分類は、統計的かつ文脈依存的です。
ー    文脈依存とは、明らかに、文脈(地)と発話/テキスト(図)の間での不可分性。

また、量子力学とのアナロジーは、連続の方程式に見られ、 ← ここは私見で、勝手な類比

∂P/∂t + ∇・j = 0  ← 連続の方程式、ガウスの定理の局所形

Pは確率密度、jはその流れ(カレント)で、量子力学では確率の保存則と密接ですが、

例えば、言語において《意味》が変わる、という場合、(広く、音声にせよ記法にせよ文法にせよ語彙の意味にせよ、使用法を含め)

上式での、ある種の流れが、その意味の出現頻度に変化を及ぼすとなりますが、ある種の流れとは《情報》に類比されます。

実際のところ自然言語処理のエッジでは、《情報統計力学》をやることになりますが、統計力学自体が未完成なので、

現象論的に大きな飛躍をして、場の量子論と超伝導理論のハイブリッドな適用になっていて、場の量子論での経路積分でモード展開/摂動展開するようなアプローチになっていて、

ベイジアンネットワークを構成して発話/テキストから意味を抽出してきますが、取り扱えるネットワークは《カクタスネットワーク》という自己再帰的ループがない特殊なものが中心であり、応用上、それが抱えている課題はまさに、場の量子論が抱える無限大の自己エネルギーと同じです。
ー    再帰的ループを交えると計算量が発散的に増えるので、《Dウェイブマシン》といった量子コンピュータでやればよい/やるしかない、となってきて、やろうとしていることが《SF化》してきている(@_@)

二番目の感想が長引きましたが、想像をかき立てられること多し、といったところです。

廣松「事的世界観の前哨」、ソシュール「一般言語学」、竹内「超弦理論」などに接続予定。← 事的ということで

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【12059】第67回・竹内薫「超ひも理論」〜著者によ...
 かっくるなかしま  - 15/6/18(木) 15:43 -

引用なし
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   第67回は、第40回の続きで竹内薫本での「超ひも理論」(↓)。
ttp://w
ww.kspub.co.jp/book/detail/1546813.html
(竹内、「ゼロから学ぶ超ひも理論」、講談社サイエンティフィク、2007/12)
ー     ゼロから学ぶ、とあるように一般向け解説本。

読む時に読み手からすると、興味があることについて、何が書いてあるんだろう?という風に、理解しようとして取り組むはずですが、《超ひも》となると、おそらくは著者自身を含めて理解できていないはずなので、内容そのものよりむしろ、

その解り難いものをいったいどう解説するか、その《テクニック》が、実際の同書の読み所と言えるでしょう。← ノンフィクション作家の技量の見せ所

そしてそこを竹内氏がどう処理しているか?と言えば、第一にふんだんな図表の使用、第二に各章末での《対話》の導入です。

特に、対話の導入部で、隊長(著者、ボケ役)とシュレディンガーの猫(ツッコミ役兼辛口読者役)の漫才形式を取り、猫が著者にその内容についての疑問をぶつけ、著者に解説の解説を促すという方法は、単に注釈をつける通常の方法よりも効果を上げていて、同書の特徴になっていると言えるでしょう。

言い換えると、

著者自身により自著への読書感想文が予め入っている(@_@)、というのが同書。

これはまた、単にテクニックというだけでなく、《自分自身に作用する自分》ということでは、場の量子論の《自己再帰的》な構造が同書の表現形式に埋め込まれているとも言えて、

毎度、著者の工夫には感心するところ大である、というのがトータルでの感想になります。

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以下、その内容と所々での面白さについての補足。

目次に沿って概観していくと、

◆第1章 超ひも理論はなぜ「究極の理論」といわれるのか?

理論の「究極」とは《重力》を統一することですが、標準理論のほうでは難儀していて、それがなぜか超ひも理論では、重力(のようなもの)がすんなり出てきてしまう。でも、同書では、それ(重力)がどのように出てくるかについて、実は触れられていません。

◆第2章 アインシュタインなひも

超ひも理論も標準理論も、喩えるなら相対性理論と量子論が結婚しているのに不仲だ、どうしよう?という話なので(笑、 ひもにもその夫婦が関わります。なのでアインシュタインなひもなわけですが、むしろ、第2章では、同じく登場してくる量子論の箇所で、不確定性原理が形を変えてしまうというところのほうが印象的。

◆第3章 世界は26次元だった!

ここは同書の白眉に相当する箇所。実は26次元であることの説明には著者が四苦八苦して章末で相棒の猫にどやされる(つまり著者が失敗を認めている)のだけれど、その説明よりもむしろ途中に出てきて第4章に繋がる《繰り込み》の説明が充実しています。素数分布についてのリーマン予想など数学本にはしばしば取り上げられていても、物理の専門書でも解説が手薄な箇所。

◆第4章 超ひもの「超」って何のこと?

ひも理論=ひも(大きさを持った素粒子)+相対論+量子論、超ひも理論=上記のひも理論+ブレーンで、「超」とはブレーンのことですが、ブレーンとは《境界条件》のこと。通常の偏微分方程式を解く問題では、境界条件が必ず出てくるけれど、そして境界条件は脇役に過ぎないはずだったのが、超ひも理論では、それが物理的な《実在》として、ひも共々《主役》を占めるというところが、発想転換の箇所です。

◆第5章 Dブレーンの世界

超ひも理論(Dブレーン)のモデルで、素粒子の分類を説明してみると、という話。手品的(魔術的)に上手く説明ができるのだけれど、著者自身が指摘しているように、説明しかできません。理論的背景を持ちながらも、予測・検証の術がなく、あくまで《モデル》の提示の域。

・・・

最後に、第3章末から第4章始めにかけての《繰り込み》の話は、同書の白眉と言える解説なので、概観を提示しておきましょう。

ひもでできた我々の世界が26次元だ、という仮説に至る途中で、

ひもの質量を計算しようとすると、ひも理論でも無限大が出できてしまいました、

それは《調和級数》の形を取り(↓)、

S(x) = 1 + 2 + 3 + 4 + ・・・

これは、無限に発散するけれど、でも、《考え方》によってはそれは、有限な数値-1/12だとなって、それで無限を上手く処理していますという話。

何をやっているか?と言えば、

a) 調和函数を《ゼータ函数》に拡張し、(ζ(s)=煤@n^(-s))

b) そのゼータ函数をその定義域を超える形で使用すると、(解析接続)

無限から無限が差し引かれて、有限な値が残る・・・《繰り込む》とは、級数を別の函数に置き換えて、無限を有限に置き換える手順だ、となります。

・・・

雲を掴むような話をしていても、それで?で終わりなので(笑、身近な話に関連させると、

同書でも、上記を説明するために、次の馴染みのある無限級数を例示しています。(等比級数)

S(x)= 1 + x + x^2 + x^3+・・・   ・・・★1

これは、高2で出てくる無限級数で、-1 < x < 1という収束条件のもとで、

S(x)= 1/(1-x)              ・・・★2

でした。

身近な話と関連付けると、

まず、上記★2で、金融機関の《与信創造》では、預金の1割を手元に残し9割貸出し、貸出したお金は預金として戻って来るので、そのまた9割を貸出して・・・これを続けると、

x=0.9だから、S(0.9)=1/(1-0.9)=10

つまり、銀行は、1の預金を元に10倍までの貸出しができる。
ー     金融恐慌等で一斉に預金が引き出されると、元の預金は1しかないので支払い不能に。これが取り付けです。

また、上記★1を組み合わせると、つまり、金利や事業によるキャッシュ・フローの流列を、リスク込みの実質金利で割引くという使い方をすることにより、債券や株式、不動産等の資産の価値が計算できるわけです。
ー     この計算では、長期的には最終的に、キャッシュ・フローの成長率が、割引き率(経済成長率)に収束することを前提にしていますが、マクロ的に見て果たしてそう言えるのか?というのが、一昨年来、《トマ・ピケティ》が喚起した論争です。

つまり、見かけの形は異なれど、どちらの式も現実に有用、であるわけです。
ー     たかだかであってもこの式がないと、与信も株式も成り立たないので、《資本主義》は成り立ち難いです(笑

・・・

さて、★1と★2の《関係》に注目すると、

a)  無限級数(★1)は、定義域次第で、全く違う函数(★2)として表現できる、

或いは、

b)  ある函数(★2)は、定義域を狭めれば、無限級数として取り扱える、

となっています。

そこから、無限級数は定義域(収束半径)に縛られるので、もっと広い定義域を持つ同類の函数を見つけ出してきて、広い定義域で計算してみたらどうか?となるわけです。

上記のひも理論での無限大はそうした処方箋に基づきます。
ー    逆に言えば、そうした性質のよい函数が見つからない場合もあって、それが標準理論で重力の統一で難儀している大きな理由と言えるのでしょう。

理解しようという対象が、関係を重ねる《事的》な事象であるとした時、それを説明しようとする論理の側もまた、関係を重ねるという必要性に迫られるというイメージか。

廣松渉「事的世界観の前哨」に続きます。

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【12060】第68回・廣松渉「事的世界観の前哨」(そ...
 かっくるなかしま  - 15/6/19(金) 18:53 -

引用なし
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   第68回は廣松渉「事的世界観の前哨」です(↓)。

ttp://w
ww.chikumashobo.co.jp/product/9784480091000/
(廣松渉、「事的世界観への前哨〜物象化論の認識論的=存在論的位相、ちくま、2007/10)

竹内薫氏の《事的世界観》から派生して、その前史としての廣松渉氏の同書ですが、

感想の結論としては、

a) 事的世界観という造語が、場の量子論に基づく以上、そこでの関係性の姿は客観的/普遍的なので、同書での廣松氏の解説も同様に正しいだろうとなりますが、

b) 同書を離れて、或いは、同書の副題に注目して、廣松氏の《物象化論》の「基礎付け」として、物理での事的世界観がワークするかと言えば、それは違うだろう、となります。

物理での事的世界観は、仮にそれが正しくとも、物象化論の正しさを直接的には担保しません。

どういうことか?と言えば、

場の量子論では、《存在》について説明を試み、そこでの事的関係は、確かに哲学での存在論や認識論に影響を及ぼすことになるけれど、

《在る》ということが説明できても、それに基づいて《成る》ということ、

つまり、生命や生態系や経済系等の所謂《複雑系》を説明できるかとなると、そうはなりません。

廣松氏が関心を寄せるのは、経済社会システムであるわけですが、場の量子論での存在の論理が、経済社会システムの説明の論理として通用するか?と言えば、通用しない。

どちらの世界も事的世界だとは言えるだろうけれど、働いている論理/法則が似て非なるものであれば、《喩え話》の域を出ないし、構造まで類比できないと類比のレベルは低いとなるし、何よりも、廣松氏は西欧哲学の二項対立的性格を批判しているはずなのに、その要素還元的性格を否定しているようで準拠してしまうことになる。

複雑系において、如何にして《在る》から《成る》のか?という問題へのアプローチとしては、「《在る世界》の論理は《成る世界》の論理として成り立たない」、ということを仮説前提にしたプリゴジンによるアプローチのほうがよほど正しい、と観ています(↓)。

ttp://w
ww.msz.co.jp/book/detail/02542.html
(プリゴジン、存在から発展へ〜物理科学における時間と多様性、1984/12)
>> 古代ギリシャの哲学者へラクレイトスは、「なべての物は流れ、すべて〈ある〉はなく〈なる〉のみ」という有名な言葉を残した。本書の表題は、存在(ある)から発展(なる)への、つまりは可逆的な力学的世界観から不可逆的な熱学的世界観への転換を意味している。

《可逆》とは《対称》の世界です。場の量子論は《対称》の世界です。しかし、対称性は《保存則》を導くけれど、そして対称性は素粒子(ゲージ粒子)の存在を導くけれど、その素粒子に質量を与えることができない。従って、自然は対称だけれど自ら自発的に対称性を破ると仮説して、素粒子に質量を与える。
ー    《対称性》が破れることを想定しないと、在ることの説明ができないし、成ることの本質に不可逆性があるとなると、対称性は何らかの方法で、なおさら破られなければならないとなる。

相対論と量子論を取り上げて、世界は事的だとは言えるけれど、その事的の中にも著しい階層性の違いが在る、となります。

同書は、示唆に富んでいるれど論理的飛躍がある、というのがトータルでの感想となります。

・・・

以下は、同書の構成と内容、印象的な箇所についての補足。

まず、その構成ですが、同書は評論集であり、主題の事的世界観に関わるのは、

第一部「近代哲学の世界了解と陥穽」のうちの第2章「マッハの現相主義と意味形象」の箇所と、第二部「物的世界像の問題論的構制」の二箇所です。
ー    現相とは現象、構制とは構成のことだと思います。何らかの理由で区別しているのでしょうが、こういうところが話を分かりにくくしている。それと、著者のバックグラウンドにヘーゲルの哲学があるので、対自とか即自とか自存とか出てくると、何だったっけ?と読む手が止まってしまう。このため、即自は当事者の視点で、対自は第三者の視点を取りながら特別な場合と視点自分を観る、自存はそれだけで自立/独立した状態、等と読み替えて読み飛ばすことになる。

要は、読む箇所は大きく二箇所になるというですが、

最初の箇所について、著者(廣松氏)は、

「マッハの世界像は、主・客未分の相における現象論的な世界像だ」(p114)としていますが、そしてその説明に30ページ費やしているけれどよく分からなくて(^^;;

結局、マッハ自身の著書である「マッハ力学」(講談社)の第2章(p219)と第4章(p439)の記述内容から《逆算》して、マッハの世界像とは、こういうもの(↓)でしょう。


 〈自然世界〉  → 模写 →  〈概念世界〉
  

     F
     ↑
 関係 F=ma  → 模写 →   F=ma
     ↓
     m


上記図式での《模写》は、我々は自然のありのままを記述しているのではなくて、重要な側面を切り取るように抽出しているというもの。 ← 《科学の経済》byマッハ

その科学の経済の一部として、

模写された関係は真理ではなく、経験によって検証できるものでなればならないし、絶えず検証されるべきである、となっている。

このマッハの図式は、

第60〜61回のウィトゲンシュタインと似通っています。
ー    また、検証可能性は、比喩的にはウィトゲンシュタインの沈黙、そしてカール・ポパーの反証主義(反証可能性を持つ仮説が科学だ)に通底するものと観ることができるでしょう。

蛇足ながら、著者は、物理での事的関係により、マルクス/ルーカスの《物象化論》の基礎付けようと試みているけれど、他方で、マルクス主義が主張する《歴史法則》の法則性は、ゲーデルの不確定性原理を援用した《でたらめ性定理》により却下されるとともに、ポパーの反証不能性によってもその科学性が却下されるという構造にあります。

マッハの図式に戻り、3番目に重要な点は、

複写に際して認識される《物》とは、複合的な《記号》だというマッハの指摘です。

表記中のニュートンの運動法則で言えば、

力Fと質量mが、先立って存在する物であり、両者の間に結合関係/因果関係としてF=maを見出すように見えるけれど、

実際はそうではなくて、函数関係F=maを経験的に見出していて、その上で、再度、mやFに相当する何かに、思考上の記号を与えているという捉え方になっている。こうした捉え方を指して、マッハの世界像という言い方になる。

整理すると、


〈自然世界〉→ 誤写 → 〈概念世界A〉 → 修正 → 〈概念世界B〉
  

                F 物
                ↑
 F=ma  → 誤写 →   F=ma   → 修正 →  F=ma
                ↓
                 m 物


  ↑             ↑              ↑
事的な世界        物的な捉え方         事的な捉え方
            (物的世界観)        (事的世界観)


その2に続きます。

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【12063】第69回・廣松渉「事的世界観の前哨」(そ...
 かっくるなかしま  - 15/6/20(土) 17:42 -

引用なし
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   前回の続き。

主題の事的世界観に関わるのは、第一部「近代哲学の世界了解と陥穽」のうちの第2章「マッハの現相主義と意味形象」の箇所と、第二部「物的世界像の問題論的構制」の二箇所ですが、前者(マッハの世界像)を済ませたので、後者について。

“物的世界像の問題論的構制"というと、は? なわけですが、

物的世界像というのは、古典力学(ニュートン力学)をベースにした世界像であり、それをマッハが系統的に批判して、相対論と量子論で古典力学に修正がかかり、以降、《場》という捉え方が主流になり、場というのは、場という言葉を使わないと事的世界だ、と形容されるいうことです。

その《場》については、第66回の朝永「量子論的世界像」でほとんど網羅されているし、

第二部の哲学的議論(アリストテレスの質料と形相)も、ハイゼンベルクの「部分と全体」(みすず)、「自然科学的世界像」(みすず)、ガードナーの「自然界における左と右」(紀伊國屋書店)でほぼ網羅されていると観てよいでしょう。

ぶっちゃけ、それらを読んでいたので著者に言わんとするところがなんとなく了解できますが、そうでないと、おそらく読み通すのがかなりの苦痛っす(>_<)

例えば、(紹介しておきながら全く奨めないので、その雰囲気の一端を示すということで)

「観測の問題は、認識論上の基底構造に即していえば、所与の同一事象に関する対自的現相と対他的現相とを間主観的な意味的所知性において統一的に把握する論理構制に帰趨する」(p243)という表現を著者は取りますが、(@_@)

これは、「異なる運動状態にある観測者同士が観測データを互いに交換するとき、予め互いに了解している規則に従って交換することで意思疎通する」、ということですm(__)m
ー    規則は具体的には、ローレンツ変換だったりガリレイ変換だったりしますが、高2で習う行列。座標系を回転させるとか、点を座標系に対して回転させるとか。

万事がこんな感じなので、著者が読者に分かってもらおうと書いているとはとても思えなくて、第67回の竹内本とはスタンスが真逆っす。

あれこれ真意を斟酌することに努力を要するのは女子との対話で十分と思っているので、

本を相手にそれをすると、体力をかなり消耗するというのが偽らざる感想っす(>_<)

・・・

疲れましたが疲れましたで済ますのも釈然としないので、

示唆に富むと思われたところを三箇所、示しておきます。

まず、著者は、世界観やその変化をお題にしていますが、その世界観というものについてシビアに見ているところがあって、

意訳すると、

「人々は、旧い世界観を捨てて新しい世界観をそのものを受け容れているというより、新しい世界観のもとでの生活の状況の変化を通じてそれを受け容れている」、(p182、第二部冒頭)

というくだり。← 哲学というより、観察による社会学的な仮説として

それと、第二部の後半部で、論考の〆のような形で出てくるゲシュタルト心理学との類比。

意訳すると、

「図と地の区別は、予めそれらがこれが図、これが地という具合に決まっているわけではなくて、図と地の関係やそれらを観るものとの関係に依っている」(p295)

というくだり。
ー    図と地の関係の箇所が相対論の話、それらとそれらを観るものとの関係の箇所が量子論の話とそれぞれ繋がる箇所。

ゲシュタルト心理学から派生して、注記でソシュールの言語学に言及していて、

「ソシュールは、言語を自己同一的な諸辞項の集積ではなく、言語を機能的・差異的な一体系であると喝破した」、(by著者、p295)

とあり、意訳すると、

「ソシュールは、予め独立的に規定された概念(言葉、辞項)の連なりを言語とは看做さず、《概念ー聴覚映像》のペアの連なりから、動的に意味を生成し意味を確定してゆくプロセスを言語と見做した」、

というくだり。

個人的に著者による論及の面白さがどこにあるかと言うと、

外界の構造を我々が思考の形で写し取っていることは確実ですが、忠実に再現しているわけでは全くなく、その写し取り方には明らかに《癖》があって、《錯視の科学》が脳機能の究明の上で、一つのトピックに挙がってきていることです(↓)。

ttp://w
ww.nikkei-science.com/page/sci_book/bessatu/51198.html
(日経サイエンス、脳が生み出すイリュージョン〜神経科学が解き明かす錯視の世界、2014/04)

言語については、

想像と希望的観測を交えて申し上げると、

著者が期待しているのは、マルクス主義的な世界像を場の量子論の事的世界観で基礎付けようとしたことですが、(たぶん)

両者の間には、論理的な階層のギャップがあり過ぎる。


場の量子論  ← セマンティックギャップ →  経済・社会システム

とりわけ、経済・社会システムは、科学的検証において、大きな再現性に難がある。一期一会的。

生命系は分子生物学での進展が見られますが、遺伝子配列が特定できても、生化学反応の経路の特定はまだまだなので、← 例えば、薬理での作用機序は、ブラックボックスを対象に入出力関係を観ている状況なので

a) 再現性がある、b) 複雑であるが複雑に過ぎるというほどではなさそうだ、

という点で、おそらくは言語が、

社会科学の領域では、

自然科学的な事的世界を仮説しうるということでは、最も至近なところにあるのではないかと、想像し期待しているという次第。
ー     ぶっちゃけ、言語は《いい加減》なのにそこそこワークしてしまっていて、そのいい加減さに何がしかの規則があるのだろうと想像。でたらめを律する規則のようなものに興味を惹かれます。

----------------

【12089】第70回・百田尚樹「至高の音楽」
 かっくるなかしま  - 15/6/28(日) 12:45 -

引用なし
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   予定外で百田尚樹「永遠の0」、もとい「至高の音楽」(↓)。
ttp://shuchi.php.co.jp/article/1730?
(周知/PHP、百田尚樹、同上)
ー    著者が自著を語る特集になっています。

何やらまた騒動になっていますが、一部のメディアが百田氏を叩きたくなる気分はよく分かるが、百田氏は私人であるからお門違い、

件(くだん)の自民党の文化芸術?勉強会について言えば、

憲法調査会の件と同様、気の緩みのお粗末・・・民主党共々、相手側のエラー(ザル)で失点を競う試合展開で、《草野球》状態(>_<)

民主党は国家運営を全く考えていなくてそもそもお話にならないが、自民党のほうはと言えば、国会運営というものを党の側がよく考えていない。宏池会の件にせよ、党側で無駄なところに力が入り過ぎ。

ぶっちゃけ、党施設内での会議の内容が即時ダダ漏れするような有り様だと、危機管理能力が疑われてしまって、自分が安保法制に反対するとしたら、「安保法制以前に、情報機関の設立やスパイ防止法の制定のほうが先だ。他にやることがあるはずだ」となります(-_-;)

・・・

さて表題ですが、百田さんにとっては至高の《至高》は、18-19世紀のドイツのクラシックで、そのうち特に、ベートーヴェン。
ー    出会いが第三の《英雄》とのことなので。音楽は嗜好なので、至高は嗜好です(^^ゞ

永遠の名曲として25曲を選択し、論評をつけていますが、CDを添付しているので、興味があれば内容を耳で確認できるようになっているところが編集上の工夫であり、親切なところです。

マニアであるため、楽曲の解説と論評と、既にある論評への論評を含み、クラッシク好きと入門者の双方の読者による閲読に耐える内容というところも特徴。

それと、フィクションとノンフィクションの両方でヒットを出せる作家はなかなか稀有な存在ですが、クラシックという狭い分野でいかに多くの読者を射程に入れるかというところも、著者の力量が発揮されているところであって、端的には各章=各楽曲の《見出し》に現れています。

例えば、

ベートーヴェン「第五交響曲」 文学は音楽に敵わないと思わされる瞬間

ラベル  「夜のガスパール」 昼と夜とで聴いた時の感覚が異なる

など。

25曲中、ベートーヴェン5曲、モーツァルト3曲、バッハ3曲、シューベルト2曲、他11名11曲という内訳で、ベートーヴェンが一押しの様子が窺えますが、

番外で「永遠の0」を執筆した時に、聴きながら、そしてラストのエピローグを重ねながら聴いたというのがマスカーニ(伊)の「カヴァレリア・ルスティカーナ」の間奏曲。こちら(↓)です。
ttps://m.youtube.com/watch?v=WXSnrftcZM4
(youtubeより、おやすみ前のクラシック 〜カヴァレリア・ルスティカーナ間奏曲〜)
ー    「永遠の0」読者にはエピローグで重ねて聴いてみて欲しいというのが、あとがきでのメッセージ。

・・・

以前に、百田氏の同書につき、それとは触れずに部分で言及したことがあります。(末尾の補足欄にて再掲。)

自分の場合、クラシックだと、バッハ、モーツァルト→ (略)→ ブーレーズ、リゲティ等の現代音楽に飛んでしまっているので、同書を読む時の取っ掛かりは、バッハとなりましたが、

例えば、

第24曲 バッハ 「ゴルトベルク協奏曲」 対位法の最高峰

「カノンは厳格なフーガで同じメロディーが遅れて追いかけるが、3の倍数の変奏曲が全てカノンになっていて、第6変奏で2度、第9変奏で3度・・と追いかけるメロディーが最初のメロディーから1度ずつ開いていって最後の第24変奏でオクターブ離れていく。5度ずれている第15変奏は最初のメロディーを《後》から演奏した形になっている」とあり、

面白い、と手を打ちました。

第15変奏の備える構造を《反行カノン》、《逆行カノン》と言いますが、

より詳しくはこういうものです(↓)。← 楽曲付きの解説
ttp://w
ww5b.biglobe.ne.jp/~simomac/kanon.htm
(数学&音楽ランド、回文的逆行可能なカノン)

表現を変えると、鏡像関係、従って自己参照の構造となります。
ー      これは、第65回で取り上げた「ゲーデル・エッシャー・バッハ」のバッハの箇所に相当します。
ー      百田氏は楽曲の構造上のツボを全く外さす数行で凝縮して片付けながら、楽曲の由来や感想、名盤の比較推奨まで網羅するという手腕を発揮しています。百田氏はバッハの編集力を作曲家の真の力だと称賛しているけれど、百田氏の編集力が凄い(@_@)
ー      私が聞くところでは、編集担当者氏(複数)は、クラッシクの素人さんなので、全編/全曲、百田氏が自力で趣味でやっています。

もう一点最後に、

ドイツのクラシックを仮に頂点とすると、当然、その拘りのあるものには固執が生じ、そこから外れるものには忌避感を覚えるものだろうけれど、百田氏は全然そうなっていない。

平たく申し上げると、20世紀のクラシック(現代音楽)は、ドイツ・ロマン主義の克服だったので、ドイツ・ロマン主義vs現代音楽という相剋/二項対立的な様相があったというのが歴史的経緯なのですが、

百田氏は、例えば、バッハが接近した無調性やアルゴリズム的な対位法を、現代音楽への先駆的兆候と見做す肯定的評価まで踏み込んでいる。

同書の冒頭で、百田氏はデューク・エリントンの言葉を引用しています。

「世の中の音楽には二つのジャンルしかない、良い音楽と悪い音楽だ」。

他方で、メシアンの弟子として20世紀前半に現代音楽を開拓したブーレーズはこう言っています、

「偉大な作曲家によって作られた歴史は、決して維持保存の歴史でなく破壊の歴史だ。それもまさに破壊されているものを慈しみながら行う破壊だ」


----------------

以下、上記の補足。
ー     昨年の佐村河内騒動の時に申し述べていたことを再掲しておきます。

--- 再掲始め ---

一部のメディアは百田氏を中傷するため、NHKの看板を前面に出すことで適格性を問うという絵を作り出しているが、多少、百田氏本人を知るものとして言うなら、百田氏の本分はまさに「作家」なのであり、個人としての意見表明に、天下のNHKの看板など必要ない。
ー   肩書きの権威で世間にものを語る人もいるだろうが、百田氏の場合、発言するのにNHKの看板などまるで必要としない。個人≒NHKではなく、個人>>NHKの圧倒的な不等式。
ー   苦労人で遅咲きであるから、いまだもって書店には、出版社に営業を丸投げせず、自ら足を運び、現場の意見を聞きながら、低い姿勢で売り込みを重ねている。どこぞの佐村某のように、作品をゴーストに丸投げし、世論の同情や情緒に便乗し、被災者に詐術を弄し、自己満足のパフォーマンスを演じるような偽物とは、対極、真逆に位置する。

一部のメディアは、変人の右巻きオヤジのレッテルを百田氏に貼ろうとしているようだが、無駄である。
ー   百田氏というのは、苦労を見識に昇華させてきた人であるから、相応に奥深い。

今後の展開に期待しうるのは、百田氏がクラッシック音楽のマニアであり、二万枚のレコードを所蔵し、クラシック音楽を知らない読者、知っている読者の双方を満足させるべく、寄稿を重ねてきたという、実績があるからだ。そして、百田氏がクラッシック音楽の頂点と位置付けるのは18-19世紀のドイツ音楽であるが、その中でも最も高く評価しているのが、まさにベートーヴェンに他ならないからである。
ー     ベートーヴェンに造詣の深い経営委員が、偽ベートーヴェンに翻弄される現場の体質に、どういう評価と提案を示すのか、興味津々である。
ー     一部の現場が左巻きなら、一部の委員が右巻きで、組織としての釣り合いが取れていてちょうどいい。要するに、内部での相互牽制が働けばよいのだ。

おれは、クラシックの音楽の頂点はバッハだと観るほうだが、例えば、百田氏の「ゴルトベルク変奏曲」への評論は的確であり驚きを感じる。
ー     逆行カノンの自己参照の数理構造等。高々数行に本一冊分くらいの知識が凝縮されているからな。
ー     偽ベートーヴェンなどまるで相手になるまい。百田氏には偽ベートーヴェンを産み出してしまうNHKの土壌/体質におおいに切り込んで欲しい。

--- 再掲終り ---


----------------

【12098】第71回・橋爪大三郎「国家緊急権」〜 憲...
 かっくるなかしま  - 15/6/30(火) 11:10 -

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   今回は、橋爪大三郎「国家緊急権」です(↓)。
ttps://w
ww.nhk-book.co.jp/shop/main.jsp?trxID=C5010101&webCode=00912142014
(NHK出版、橋爪、同上、2014/04)

第60回、第61回のウィトゲンシュタイン「論考」に続き、橋爪「言語ゲーム」を取り上げるつもりでしたが、言語ゲームは一旦飛ばして、「国家緊急権」。

表題副題の「憲法より大事なものがある。」は、同書の装丁/背帯にあるコピーです。

論争的なコピーですよね。

それはそうです。国家緊急権は、憲法学における最大の《タブー》ですから。

はっきり申し上げましょう、国会やメディアがまともであるならば、

憲法論争が賑やかではあるけれど、

憲法を基準に安保法制を裁くのでは、なくて、

緊急事態を基準に安保法制を問う、そしてその問いは憲法自体をも対象として発せられて、

いるはずだし、そうあるべき、なのです。 ← 自分の論点であり意見っす

トータルの感想をズバリ申し上げると、

「今読まれるべきであり、もっと話題になってよい本」です。


・・・

8つの章で構成されていますが、重要な箇所から、ズバリ参りましょう。

第3章、「国家緊急権と軍隊」。

自己完結し緊急事態に耐えうる政府機関は、唯一、軍であるという事実認識からスタートし、

自衛隊は軍か?

と著者は問います。

国際法上の確立された定義に基づき、自衛隊は軍だ、と指摘しますが、

国内法的には、警察の取り扱いになっていて、故に軍扱いではない。

軍であり、軍でない。

ここに、PKOでの武器携行等もろもろ・・戦時・緊急事態時に、本来あるべき行動能力への過剰な《制約》の源泉があり、従って、自衛隊の《地位》の見直しを喚起します。

ここは、現在進行形で百地教授がフランス記者と喧嘩している箇所(↓)でもあり、(笑
ttp://w
ww.bengo4.com/other/1146/1307/n_3318/
(弁護士ドットコム、安保法制「合憲」論者・百地教授「もう侵略戦争しないのか」と外国記者に問われ激怒、2015/06/29)
>> 細かい議論はできませんが、実は日本の自衛隊は、実態としては、まさに世界的にもですね、核こそ持ちませんけども、通常戦力では世界でもトップクラスの軍隊です。しかし法制度上は9条2項で戦力の保持を禁止されていますから、『軍隊ではない』と言わざるを得ない。つまり警察組織の一環なんです。したがってまともな国並に、もし侵略を受けた場合にそれに対処する。あるいは侵略そのものを阻止するためにこそ、自衛のための軍隊を持つべきだと。

いわば、《グレーゾーン中のグレーゾーン》に相当し、安保法制の審議および改憲の発議において、絶対に避けて通ってはいけないところでしょう。

・・・

第5章、「国家緊急権と安全保障」。

ここでは、国際条約と憲法、日米安保と憲法の関係について、歴史的経緯に即して言及しています。

要は、憲法の絶対的優越性を問い直す、という論の構成を取っている。

結論としては、憲法は最高法規であるが、最高の《国内》法規であって、(国内向けに過ぎず)

条約は、国を拘束するという意味で、憲法と同等の拘束力を持つ。
ー    その象徴的事例として、サンフランシスコ講和条約に至っては、憲法以上の拘束力を持った最高法規であったと指摘している。確かにそう。条約が締結されなければ主権回復におぼつかず、主権者不在の憲法であったわけだから。

日米安保については何と言っているか?

委細省略しますが、国家が緊急時に緊急時対応の能力を欠くとお話にならないので、

憲法第九条と日米安保は《ワンセット》、日米安保は広い意味での憲法の一部、と言っている。
ー    なんかズバリ過ぎて笑えてくるんだが。

その上で更に、日米安保の現在/将来について何と言っているか?

相手が非正規の武装集団や相手が破綻しかかった冒険主義的国家であると、機能しなくなってくるから、新種の脅威に対しては、

現行の憲法の枠の《内外》で対応を考えるべき時だ、としています。
ー    枠外をも視野に入れるべきなのだ、と。

・・・

第2章、「国家緊急権と憲法」。

上記の第3章では、平時と緊急時とでは政府は《モード》を切り替えるべきだと著者は主張しています。
ー    例えば、平時のポジティブリストから緊急時のネガティブリストへのモード切り替え。《緊急時法制》ですね。

しかし、緊急時には、平時の諸権利が部分で制約される。それをどう考えるか?が第2章の論点です。

結論から言えば、緊急時においては、国民多数の権利の侵害が問題になる。部分での制約はかかるし、部分での制約を理由に看過、不作為を選択するとそれは責任の放棄だ、となる。
ー    もちろん、部分の権利の制限を説明、論証する責務が国にはあるが。

著者の説明は、《自然権》にまで遡ります。

要は、法律や憲法が奪うこちができない固有の権利が人には備わっている、ということを合意として仮設し、

政府に求められることの本質、特に緊急時に顕(あらわ)になり直面する本質とは、

「自然権に照らし、本当に必要なことであれば、憲法に定めがなくとも法令が整っていなくとも、それがあるかのごとく、行う」、

ということです。

・・・

「憲法より大事なものがある。」とは、かなり論争的なコピーですが、

商業的手法でも興味本位でも全くなく、

タブーを設けずにきちんとした論議を喚起する、時宜に適った呼び掛けです。

目下の国会やメディアによる憲法論争が、

憲法学者を含めて、いかに皮相的、視野狭窄であるかを納得させられる一書である、

ということで、取り上げました。

以上。

----------------

橋爪「言語ゲーム」を飛ばしましたが、第60回で言語ゲームを取り上げる理由を記しておりますので、再掲しておきます。

--- 再掲始め ---

言語ゲームを取り上げるのは、人々の振る舞いそのものに注目することに意味がある、と考えるからです。また、今なぜそうなのか?と言えば、一つには、《振る舞いの科学》が進捗していて、典型的には、ロボットや計算機が人々の振る舞いを模倣するという事例が工学的なエッジとして注目されているから。
ー     無人自動車走行もその一つ。軍事におけるドローン等も。

そして時事との関連で、安全保障法制や憲法論争。別稿にて、改めて英国法学者のハーバート・ハートの論に言及しますが、ウィトゲンシュタインを後継しているハートの論においては、言語ゲームの《一次ゲーム》が、人々の振る舞いに相当し、そこには行動原則としての掟があり、法治は、その振る舞いに言及する形での《二次ゲーム》に相当し、そこではルールの明確化を通じて、ルールの円滑な運用、変更、承認、裁定等が行われる。
ー     二次ゲームもまた人々の振る舞い。変更・承認は議会、裁定と裁定の裁定が司法。

安全保障法制は変更・承認の二次ゲーム、改憲論争は二次ゲームについてのゲームなので《三次ゲーム》に相当しますが、私見では、肝心の《一次ゲーム》、つまり、人々の振る舞いという論点が疎かにされていると観ます。

--- 再掲終り ---


----------------

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