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後続スレッドの出だしということで、作法として今回は、
なだいなだ「民族という名の宗教」(↓)。
ttp://w
ww.iwanami.co.jp/.BOOKS/43/8/4302040.html
(なだいなだ、「民族という名の宗教〜人をまとめる原理・排除する原理」、岩波新書、1992/01)
本を読む時、伝える技術、構成、内容の3つに注目しながら読むようにしていますが、
同書は、「権威と権力」(1974)、「神、この人間的なもの」(2002)の三部作の真ん中に位置し、そのスタイル(伝える技術と構成)は前作「権威と権力」を踏襲しているから、端折って内容について言及することにしましょう。
その前に、著者のように無神論を公言する立場からすると、宗教なり神なりを、よく言えば歯切れよく、こうだ、と言えるのかもしれませんが、
結構、微妙ですね。
余談ですが自分の場合、観察すればするほどに、この世界は不思議に満ちていると思えてきているので、自然の造形の精妙さからは、むしろ、一から多・多から一的な《汎神論》に近づいて行っているし、精妙さの一端に秩序(調和、均整)を観る時、ピタゴラス教団っぽい原始宗教観的な感覚を覚える。
ー ぶっちゃけ、不思議に満ちていると思っているので、《分かった》と言うには程遠い。
それと、同書の主題に関連するけれど、著者の指摘のように、確かに宗教には《人をまとめる原理》としての側面を持つけれど、
別種の側面が根源的にあって、それは必ずしも人(ヒト)に限らないだろうとも観ていて、
こうした《象》の振る舞い(↓)を観ると、原始的で根源的なものを垣間見るという感覚を強く覚えます。
ttp://w
ww.yukawanet.com/archives/4503651.html
(秒刊サンデー、象が死んだ仲間を弔いお葬式をしていると話題に、2013/07/24)
・・・
さて内容ですが、
ほとんど自分と同じ感想があるのを既に発見しているのでそれを示すと(↓)、
ttp://d.hatena.ne.jp/sunchan2004/touch/20050418
(徒然なる備忘録、同上、2005/04)
>> 以上の箇所から評者の疑問は明らかであろう。「人をまとめる原理」としての世界宗教と民族がフィクションであったとするならば、どうして「労働者」とか「部族を越えた人民」というものも同様にフィクションではないと言い切れるのか。
>> 著者は、それまで長い間争い合って来た集団を強引にまとめたのが民族という枠組みだと言った。しかし、評者には、この集団間の反目・相違点を強調しておきながら、国や部族という枠組みを越えた労働者なり人民なりが、どうして反目し合わないと言えるのか全く理解できない。
>> 一つの民族としてまとめられたエスニック・グループ間以上に、そこには反目・相違が存在しているのではなかったのか。社会主義が多くの植民地国を独立させてきたと言うが、それは著者の定義での民族が持った国民意識(ナショナリズム)とて同じ作用を及ぼしたのではなかったのか。
>> 「チトーは社会主義のというよりも、ナショナリズムのシンボルだったのか」「チトーのカリスマ性が、ユーゴスラビアというフィクションを信じさせていたのだね」(118頁)と言っている箇所からして、著者も同じ考えを持っていることは明らかだ。にもかかわらず、すぐその直後で「もし社会主義体制があと二〇年続いていたら、ユーゴは一つの国になっていたかもしれないね」(同上)と言う理由が自分には全く理解できない。
>> 国民国家について、そしてナショナリズムについてもっと勉強したいという思いを強く刺激された書ではあったが、この程度の社会主義擁護では、「批判的精神としての社会主義の復権」(カバー解説)に賛同する者などほとんどいないであろうし、社会主義者の自慰的な論理としかみなされないだろう。
かっくる 「ま〜、そんなところでしょうね。以上」
さくら 「以上? おしまい?」
焼き鳥 「丸投げの手抜きだ、アホー♪」
かっくる 「う〜ん、民族自立のところで、松岡正剛氏が千夜1000冊で取り上げたいとしていた《ケストナー》の児童文学の話が5行出てくるよ」
さくら 「枝葉末節?」
かっくる 「う〜ん、血の信仰のところでコンラート・ローレンツの《攻撃》の話が3行あるね( ̄▽ ̄)b」
焼き鳥 「マニア談義か、アホー♪」
かっくる 「著者は宗教的ナショナリズムを嫌っているから、「民族という名の宗教」なんだろうけど、より適切には、「国民国家という名の近代のフィクション」、でしょう。国民国家の形成では、社会主義もその役割を担ったし、民族を宗教と呼ぶなら社会主義も宗教だよ。社会主義を擁護しようとするから、話が錯綜してしまう。それを上記の評者さんは指摘しているから、言うことがなくなるんだよ( ̄▽ ̄)b」
さくら 「じゃあ、取り上げる意味は? 取り敢えずの作法?」
焼き鳥 「取り敢えず第100回の区切りを目指している、と観ます」
かっくる 「(ぎく) ま〜、それもあるけれど(汗、 今、現在進行形で目撃しているのはまさに、土壇場のEUでしょ。言うなれば、「欧州共同体という名の現代のフィクション」が試されている」
さくら 「時事との関連では、集団と集団をまとめる原理との関係を再考する意義はあるだろうと? 捨てるに惜しいという社会主義の価値は?」
かっくる 「最初は欧州の国内の労働問題が始まりだから、社会主義も現実の政策論としての意義を備えていたが、その後の社会主義は、国際共産主義運動としての国家間イデオロギー闘争であったから、それは捨てられて当然のことでしょう。マクロ経済政策の労働再分配の狭いカテでイキ、政治運動としては過去の遺物」
さくら 「戦争を抑止する平和運動としての社会主義の意義はどうでしょう?」
かっくる 「はっきり指摘しておきましょう。戦争の素地は、対立する陣営の国民の心理に文化的距離、倫理的距離、社会的距離が造り出されることで助長されるとすると」
焼き鳥 「平たく言えば、それぞれの距離に端的にどこに現れ易いかと言えば、文化であれば民族、倫理であれば宗教ですね」
さくら 「焼き鳥に聞いてないよ」
焼き鳥 「アホー♪」
かっくる 「そして、社会的距離は、典型的には《階級闘争》だよ。だから、戦争を助長する社会主義の負の側面を軽く観るのは誤りであって、民族と宗教に言及し、その危うさを説くと言うことであれば、(社会主義に観られた)思想の危うさも並行して説くのが、《バランス感覚》であるはず。」
さくら 「焼き鳥の串だけ見て、美味そうって想像してちゃ駄目なんだってことだよ、分かった? 焼き鳥」
焼き鳥 「焼き鳥に串は欠かせませんけどね」
さくら 「現在進行形で意味があること以外に、よい点は?」
かっくる 「よい点は、1992年という国際共産主義運動が破綻した時点で、その現実から多くの論者が逃避したのに対して、著者は逃げなかったこと。それから、言いっ放しで逃げるか、論者によっては転向して右派の論客を偽装したりしているが、著者は、そのあとがきにあるように、自身を含めて彼らが推奨した社会主義にシンパシーを抱いた読者や聴衆を《ケア》していること。ここは臨床医の経験ならではかな。この二つ。それと最もよい点があるとすると・・」
さくら 「最もよい点?(@_@)」
かっくる 「対話方式だよ。こういうやり方がこうして成り立っていられるのも、なださんのおかげだよ」
さくら 「とても不思議な因果ですね。それと焼き鳥がいなかったかもしれないと思うと・・」
焼き鳥 「全員一緒だ、アホー♪」
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