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安倍政権の経済政策を思想的というか哲学的な面から眺めてみると、
この国では(というか世界の主要先進国すべてにあてはまるのだが)、
「グローバル資本主義」と「国民国家」の利益相反という事態が生じている。
国民国家に対する帰属意識が少ない企業ほど国民国家から多くのサービスを期待できる
という倒錯した法則が成立する社会になっている。
ここで両者の定義が必要だろう。
1.国民国家というのは、国境があり、官僚制度があり、常備軍があり、国籍と帰属意識を持つ「国民」を成員とする共同体のことです。
と、内田樹という自称思想家は説明するが、こんな定義は必要もないだろう。あたりまえのことだ。犬畜生だって一種の〈国民国家〉意識を本能的に形成している。たとえばオオカミの群れのリーダーは成員のために敵と戦い、縄張りを守り、餌をとり、それらを成員と分け合う。成員はリーダーを崇め、その統率のもとに動く。
もしオオカミの各グループのリーダーたちが、成員を無視して、互いの他のグループのリーダーたちだけで獲物のおいしいところを分け合い、成員にはわずかしか獲物を与えないどころか、餓死しても平気でいるようなら、もはやグループなどというものは成立しない。各グループは各リーダーたちの道具でしかなく、自然の営みは根本から覆され、あらゆる関係がずたずたになってしまう。これがいわゆる現在世界に現象しているグローバリズムであるといえる。
2.グローバル企業はもはや特定の国民国家には帰属していない。経営者も株主ももう同じ国の国民ではない。言語も宗教も生活習慣も異にしている。
と内田樹は定義する。
彼らに共通するのは、企業の収益を増やし、株価を上げ、適切なタイミングで売り抜けて自己利益を確保すること、それだけである。
日本の大企業はすでにほとんどがグローバル化したか、しつつある。そういう企業は同胞の雇用にも、企業城下町の支援にも、祖国の国益の増大にも、もう関心がない。仮に関心があっても、外国人株主からは「そんな余分な金があるなら株主に配当しろ」というクレームがつくだろう。
つまりこういうことだ。国民国家の長(日本なら安倍首相)は、本来なら日本国という法制下に居住し、税を収めている国民たちの利益のために政治をしなければならないのに、本能の壊れたオオカミの群れのリーダーたちのように、私利私益の充足のために政(まつりごと)を行っている。
国富を私財に移し替えることに熱心な人間、公共の福利よりも私利私欲を優先する人間を当の国家が全力で支援する。それが今、アメリカでも中国でも日本でも、そしておそらく韓国で起きていることの実相だと、自称思想家の内田樹はいう。
面白いのは以下の指摘だ。これはさすがに思想家でなければなかなか見抜けない卓見だとおもう。
●グローバル資本主義は「寿命が5年の生物」を基準にしてものごとの正否を判定しているのに対し、国民国家はとりあえず「寿命100年以上の生物」を基準にしてものごとの正否を判定しているということです。ある意味では「それだけの違い」です。
日本の「会社」組織の平均寿命は5〜7年である。
つまり日本の平均的な企業はその寿命の期間のことしか考えないで活動している。
たとえばある企業が公害を垂れ流したり、北朝鮮に輸出が禁止されている機器をひそかに売ったりするのは、それが発覚して問題化するまえに会社が潰れているから、気にする必要などないからです。
これは日本の政党にもいえることです。笑 政権にもいえるでしょう。笑
大臣がコロコロ変わり、野党がコロコロと名前を変える。だれも数年先の結果責任を負わない。
とめどなくあらゆるものごとの「寿命」が短くなっている。
そういう社会ではたして国家百年の計など成り立つわけがない。だから教育も医療も、数年で利益を出すことに奔走して、患者の命など二の次になる。笑
日本の経済を「寿命」という面から見ると、いろいろなものが見えてくる。
いまテレビドラマで「嵐」の櫻井翔主演「先に生まれただけの僕」というのを見ているですが、まさしくこの問題を扱っていて、ニヤッとした次第です。
続く
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